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平成19(2007)年5月のコラム一覧へ戻る

オイラーの公式、ニーチェ、損害賠償

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.昭和50年、大学は法学部に進みました。しかし、法律や法律学には、全く興味が持てませんでした。学問とは、古めかしい言い方では、真善美の追及であり、普遍性を求めることと信じており、法律や法律学は、それからはほど遠いと、当時は思っていたのでした。

より普遍的なものを求めて、法律学よりは経済学、経済学よりは数理経済学、数理経済学よりは数学と、興味関心は移っていきました。

数学は、一般の人にはあまり認識されていないようですが、今、爆発的に発展を続けている学問のひとつです。その勢いは、古代ギリシャ以来という人もいます。世界中の最優秀の頭脳が取り組んでいます。その中に、少なくない日本人の学者がいることを、同じ日本人として誇りに思います。

数学とは、数的事象について、等記号(=、イコール)を見出すことです。全く異なることと思える事柄の間に等式がなりたつと、それだけ偉大な業績と評価されます。複雑な事象に、シンプルな等式が成立すると、美しさが感じられます。

今年(2007年)は、1707年4月15日生まれの数学者オイラーの生誕300周年です。次の有名なオイラーの公式は、何度見てもその都度新鮮ですし、いくら見ても見飽きることがありません。

どうして、自然対数(e)や虚数(i)、円周率(π)の振る舞いがこんなにもシンプルな結果をもたらすのでしょう。

今でも、毎月12日に発売される「数学セミナー」という大学の1、2年生を対象にした雑誌を読むのが楽しみです。数学に関する最新のトピックスなども気軽に読めるように紹介されています。

2.私は、その後、事情があって、司法試験を受けることにしました。法律の本に、併せて歴史や哲学、社会学、文化人類学など関連する本も読み進めました。

文化人類学では、「交換」とか「互酬」ということが議論されています。文系の学問にも、「等記号」が出てくるのです。経済学では、物と貨幣との「等価交換」を前提として精緻な議論を組み立てました。しかし、文化人類学では、物と貨幣との「交換」だけでなく、物や貨幣のみならず人間の役務や感情、さらには人間そのものの交換をも広く「互酬」として議論します。

「等価交換」こそが「人間」を作ったのだ、と主張するのはニーチェです。

ニーチェによれば、「負い目」(schuld)という人間の感情は、売買、交換など取引の「負債」(schulden)に由来するというのです。価値を見積もること、等価物を見出すこと、交換すること、それらこそ原初の思考そのものであって、それが約束できる動物、すなわち人間を作り出した、というのです。やがて、冒険心、勇猛心、復讐欲、狡猾心、略奪欲、支配欲などかつて賞賛された徳は、社会組織の確立とともに、不要、不道徳なものとされ、それらとは対照的な、恐怖を嫌い避けるだけの畜群的道徳が広まる。加害者に対する怒りは、損害にはどこかにその代償となる「等価物」があるという観念によって制限されるようになる。「等価物」は、加害者に苦痛を与えることから、賠償金を課すことで済まされるようになる、というのです。かつては敵に向けられた攻撃性などの本能が、血、拷問、犠牲、残忍な刑罰などの圧力により、本能の所有者自身に向けられ内面化したこと、それが「良心の疚しさ」の起源であり、「正義感」の起源である。規範の内面化の努力は、人間の美意識さえも生み出した。さらには「神々」に対する負い目が、宗教をも生み出した、というのです。

そして、最後に、損害のみならず全てのものには等価物があるとの規範の最高の形態は、法律の制定にいたる(ニーチェ「道徳の系譜」)!

民法典を編纂した学者の一人である穂積陳重も、名著「復讐と法律」(初版昭和6年)で、損害賠償の起源は復讐にある、と説きます。今時の不法行為の本には、そこまで遡って議論をするものは、まずありません。昔の学者は凄いなあ、と、つくづく思います。

3.ニーチェによれば、法の支配を当たり前として受け容れている我々現代人のほとんどは、畜群ということになります。しかし、家畜の全てが、畜群精神に染まっているわけではないはずです。少なくとも、高貴な精神、独立不羈の精神を持ち続けようと努力する者はいます。司法試験に合格し、弁護士となった私は、紛うかたなき家畜の一人(一匹?)ですが、気持ちのうえでは、いつまでも制度の前提自体の正当性を問い続ける一人でありたいと願っています。

そのようなわけで、現代においては、不法行為をなした加害者に対して、報復をすることは、禁じられています。原則として、民法上は、不法行為者に金銭での賠償義務を課すことになります。過剰な報復行為を制限しようとする近代の考え方に基づくものです。

しかし、その背後にある、被害、被害感情等は、法の認める範囲内で、最大限、斟酌される必要があります。なぜなら、法は、それら全てをひっくるめて、合法か違法かの問題として、法自身が引き取ったものだからです。法が、「対価関係」を十分考慮したとき、「正義」が実現するのです。

損害賠償についての最近の具体的問題点としては、例えば、現在、交通事故については、かつての倉田卓次元判事らにはじまる関係者のご努力により、類型別に標準的な金額が基準として定着しており、裁判になれば、全国的に、賠償額がぶれることは、ほぼなくなっています。かえって、安直に基準によりかかるのではなく、個別の事件の特色を積極的に評価するべきだという議論がなされているほどです。また、保険の実務では、必ずしも、裁判所の基準が賠償額の基準となっていないことは、依然として問題点として指摘することができます。

医療過誤事件については、裁判所をはじめとして、弁護士会も協力して、訴訟の迅速化、適正化について努力がなされていますが、まだまだ、議論すべきことや改善の余地はあるというべきでしょう。

セクシャルハラスメントによる慰謝料請求について、かつて相場とされたよりも高額な賠償額が認められることが、最近の新聞報道などでも、多くみられます。ケースによっては、当然だと思います。

4.法律家は、これからも、不法行為の対価として世間に認められる相当の金額とは何か、について、議論を続けることでしょう。数学のように一義的に決まることはないとしても、「正解」は確かに存在して、発見されるのを待っているのです。

数学は、まだまだ、人の心理や、その織りなす社会を、直接記述するまでには進歩していません。最新の経済学のノーベル賞受賞者の業績を見ても、かろうじて交換の一場面について数学の極一部が適用できるだけという程度です。

ある月の12日の晩のこと、買い求めたばかりの「数学セミナー」の頁を繰る某弁護士の書斎から、「賠償額を手探りで求める我々の努力は、まだまだ続きそうだな。」という呟きが漏れてきたのでした。

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