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平成24(2012)年10月のコラム一覧へ戻る

東京駅の百年と竹崎博充最高裁長官の頭の中身

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.今月(平成24年10月)1日、東京駅の改装、復元が成り、オープンとなりました。誕生から100年。とりわけ真正面から見ると、その迫力、美しさに圧倒されます。昔の日本人の情熱を感じます。100年前の日本人から我われに与えられた素敵なプレゼントなのではないでしょうか。

工事に当たった人は、これまでの百年に思いをいたし、これからの百年につなげるべく考えて仕事をしたそうです。

2.実は、当事務所は、東京駅とは因縁があります。同駅の煉瓦を供給したのは、日本煉瓦製造株式会社。埼玉県の生んだ偉人渋沢栄一の興した会社です。当事務所は、同社の顧問として関与しておりました。東京都内に本社があり、埼玉県深谷市に工場がありました。同社は、その後、目的を達したとして自主廃業しました。残された深谷の煉瓦工場は、重要文化財に指定されています。JR深谷駅は、赤い煉瓦造りで(実は法規の関係でタイルが使われています。)、ミニチュア版東京駅といった趣きです。

3.最近、東京駅と同様に、作り直されて注目をあびているものがあります。裁判員裁判です。裁判員裁判は平成21年から始まりましたが、実は戦前には日本でも陪審裁判が行われていたのです。このたびの裁判員裁判は、戦前の陪審裁判のリニューアル版とみることもできるのです。

再審無罪事件や、アメリカの構造改革要求を受けてはじまった司法改革ですが、国民の司法参加に関しては、陪審裁判の復活について、最高裁は当初、強く反対していました。ところが国民の参加を求める世論には抗しがたく、裁判員に有罪か無罪かの事実認定だけではなく、量刑の判断までさせ、しかも評議については刑罰までつけて守秘義務を課したうえで、最高裁も積極的に推進する方向に転換したのです。

一般市民に量刑までさせるというのは、歴史的にも、極めて例が少ないです。若者を惑わせたという理由でソクラテスが死刑判決を受けた古代ギリシャの陪審裁判が有名なくらいです。

陪審裁判の意義については、A・トクヴィル、J・S・ミルなどが論じています。国民個人個人の能力を最大限ひきだすために重要な制度なのです。

最高裁が、陪審否定派から裁判員裁判積極派に転換した理由は明らかです。事実認定は、一般人でもできます。むしろ一般人が適しています。無罪推定の原則のうえで、被告人が犯罪を犯したと信じるに足る合理的な疑いを超えた立証がなされていれば有罪、それがなければ無罪と判断すればいいのですから。これに対して、量刑を一般人が判断することは、本来、不可能なのです。応報刑なのか教育刑なのか、犯罪抑止力の有無、刑の公平・平等、予算などなど様々な考慮するべき要素があり、一概に決めることができないからです。最高裁が、量刑まで裁判員にやらせるようにした理由は明白です。裁判員の裁判官に対する依存性を強めるためです。このことは、現場の裁判官が、真摯に裁判員の言うことを聞こうとつとめていたとしても(私は優秀な裁判官はそうしているに違いないと信じていますが。)、事情は変わりません。

ですから、弁護士の間でも、裁判員に量刑の判断を委ねることに反対する人もいます。しかし、私は、そのような弊害が考えられるとしても、なお、裁判員が量刑を決めることには意義があると信じています。 難しい判断であるからこそ、個人個人が熟考し、議論を戦わせることにはさらに意味があると考えるからです。

裁判員裁判が始まった三年後である今年から、裁判員裁判の見直しがはじまります。いろいろな議論がありますが、裁判員裁判の最大の問題点である、裁判員の守秘義務の見直しがなくては、意味がありません。

裁判員裁判がはじまって三年、守秘義務違反に問われたというニュースを聞いたことがありません。裁判員が、その経験した日本の宝ともいうべき貴重な財産を、胸に抱え込んでしまっています。裁判員の声が聞こえてこないのは、明らかに守秘義務のせいです。

裁判員に量刑を判断させることの弊害を除去し、さらには国民の間で紛争を議論を通じて解決するという傾向を強め、国民の自己統治の能力を引き上げるためには、まず、裁判員の守秘義務を撤廃することが必要です。私は、裁判員に守秘義務を課すのは違憲だと考えます。

4.我が国は、原発、不況などの国内問題、世界同時不況のおそれ、近隣諸国との衝突などの対外問題に揺れています。日本国民の全員が、オールジャパンとなって戦わなければなりません。そのための議論が必要なのです。

裁判員の議論が、そのまま前記の争点に役立つわけではありません。しかし、異なる主張を聞き、証拠に基づいてどちらが正しいかを判断する経験をした裁判員は、我が国の宝と言っても過言ではありません。

日本人及び日本語には、相手の立場に立って考えてから話すという特色があります。これにより、用いる言葉も少なく、円滑なコミュニケーションが図れます。

しかし、お互いがその主張をぶつけ合う、そしてよりよい結論を探求するというような状況では、争点が明確にならず、その人の信念なのか、客観的根拠があるのか曖昧になったりして、議論が錯綜することがよくあります。そのようなときは、結論をまず先に述べ、続けてその根拠をくどいくらい述べるという英語を母国語とする人々の流儀を見習ったほうがよさそうです。小学生に英語を教えるよりも、まず先にやらなくてはならない重要なことだと思います。

日本の売りは、自動車、精密機器などのテクノロジーだけではなく、アニメ、フィギャなどのソフトだけではなく、勤勉、礼節などのメンタリティーだけではなく、富士山などの美しい自然だけではないはずです。量刑まで素人が判断できる司法制度を育てることができそうです。さらに、コミュニケーションを円滑にしながら、議論に適した日本語をつくることができるはずです。そのような日本語が、21世紀を生き抜くための日本の武器となりうるのです。裁判員の経験を、そのために活かすことができるのです。

裁判員裁判で、どのような議論がなされ、どのように結論に至ったかを検証する必要があります。言語学、社会学、心理学、文化人類学、法律学などなど、学際的な研究が必要なはずです。

日本の裁判官は優秀だと思いますが、そこまでを求めることは酷ですし、職責でもないと思います。

評議の内容をオープンにして、国民みんなで考える必要があります。

5.百年後の人々にも、この美しい東京駅を、目出てもらいたいものです。百年後の日本人には、見事に日本国を運営していてもらいたいものです。間もなく、竹崎博充最高裁長官の頭の中にあるものが、裁判所の保身だけなのか、日本の国家百年の計なのかがオープンになります。

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