2014.04.30

大塚 嘉一

最高裁第一小法廷の五賢人

1.最高裁第一小法廷は、大阪の女児虐待死事件で、被告人の刑を検察の求刑懲役10年を超える懲役15年とした一審の大阪地裁の裁判員裁判判決を支持した大阪高裁判決に対する上告審で、弁論を開くことを関係者に通知した、と報じられました(朝日新聞平成26年4月21日夕刊)。報道のとおりだとすると、裁判員裁判の量刑についての結論を最高裁が覆すことになる可能性がでてきました。

最高裁は、裁判員裁判を導入するに当たり、国民の常識を活かし、国民の司法参加を通じて国民の司法に対する信頼を強めるため、と言っていました。平成24年2月には、事実認定がよほど不合理でない限り、裁判員裁判の判断を尊重すべきだ、との判断を示してもいます。

第一審判決では、被害者の女児は食事をきちんと与えられておらず発育不良で常習的な虐待などが行われていたこと、虐待事件に今まで以上に厳しい罰を課すことが児童の生命を尊重しようとする社会情勢に適合するなどを量刑の理由にあげています。

現に裁判員をつとめた男性は、親にすがるしかない子供の立場にかんがみて被告人らには重い責任が妥当と考えた旨が報告されています。それ以上の評議の様子などは、裁判員に課せられた守秘義務にさえぎられてか、見えてきません。

第一小法廷は、裁判員裁判の結論を覆すのでしょうか。その際、その理由をちゃんと告げてくれるのでしょうか。大法廷に回付する必要はなかったのでしょうか。裁判員らの評議による量刑と、最高裁判事の理由と、どちらに分があるのでしょうか。

そもそも、第一小法廷は、この度の裁判員裁判が、人類の民主主義の歴史上、2300年ぶりの試みであることを、どう考えているのでしょうか。

2.ヘロドトスは、「歴史」において、ペルシャ帝国を打ち破った古代ギリシャの数あるポリスのなかで、とりわけアテネが強大となった理由について次のように述べています。

「こうしてアテネは強大になったのである。こうしてみると自由平等(イセゴリア)がすぐれたものであることは、単に一時においてのみでなく、万事においてであることが判明する。僭主政下にあったとき、アテネ人はかれらの近隣のどのポリスと比べても軍事において勝っていなかったのに、僭主から解放されるや、断然最強の兵士となったからである。圧政下にあったとき、かれらは僭主のために働くので故意に卑怯な振る舞いをしたが、自由を与えられると、各人が自分自身のために意欲的に働いたのだということが、これによって明らかである。」

イセゴリアは、民会(エクレシア)で発言を望む者には誰でも平等にそれを認める習慣、制度であり、ポリスの政治と密接な関係にあり、それゆえ、市民は自分の意思とポリスとの一体感を確信したのです(仲手川良雄「古代ギリシアにおける自由と正義」)。アテナにおいては、民会のみならず、裁判においても、市民が直接参加しました。陪審裁判では、民衆が量刑まで判断していました。イセゴリアの発露にほかなりません。

紀元前4世紀ないし5世紀の約200年間、古代のギリシャにおいて、直接民主政が行われていたという事実は、人類の歴史における奇跡です。現代においてもなお、民主主義を希望とする人々にとって、かつて法の支配のもと、生活の全局面に競争を持ち込み、これをルール化して、エクレシアを開き、陪審裁判を行なって、人間の精神を極限まで高めた人々がギリシャ半島にいたという歴史的事実は、今なお勇気の源泉であり続けます。

3.地球の半分を覆っていたイデオロギーが崩壊してからこのかた、経済を中心とするゴローバリゼーションの勢いが止まりません。地球大の民主主義を夢想したフランシス・フクヤマの予測は、今のところ、日の目を見ていません。

政治や文化は、グローバリゼーションの荒波の中、あるいは統合化に向かい、あるいは衝突し、しています。個人の自由、人権が確保、発展させられるのか、予断を許しません。その際、国民国家がどのような役割を果たすのか、果たすべきなのかが不透明なままです。

我々は、日本の経験を思い出すべきです。

いまでこそ、我々日本人は、東日本大震災の際発揮されたように、秩序正しく行動できる国民と国際的にも認められていますが、ずっと昔からそうだったわけではありません。室町、戦国時代の日本人は、相当キレやすい人間でした。人から笑われただけで相手を切り殺したりしたことがありました。戦国時代、大名など武士のみならず、領民も激しい競争にさらされ、そこでは自力救済すなわち自分の権利は自分で護ることが原則でした。日本の中世は、地方封建領主による封建制の世界であり、中央集権が成立していないからです。現代のように、裁判所も警察もありません。

紛争の当事者には、復讐が許されていました。土地争いで、決着がつかないときは、「喧嘩両成敗」が行われました。その後、戦国大名は、喧嘩両成敗を成文化し、暴力に訴えず、後に公の沙汰を待った者には、罰が加えられない、という附則を付け加えました。喧嘩両成敗を、復讐のやりとり、自力救済から脱して、法による支配へと誘導することとなりました。戦国時代も終わり、江戸時代になると、幕府は、喧嘩両成敗を認めず、訴訟で決着がつけられるようになりました。

やがて明治維新により近代的な裁判制度が導入されます。江戸時代の、争いは訴訟でという土台があったからこそ、近代的な法の支配に移行できたのです。それ以前の中世の、自力救済に懸命に努力した、大名、武士、領民らの懸命な努力は、その後の日本の文化遺産となって、生きています。それらは、明治維新を成功させる下慣らしとなったのです。現代の裁判の背後には、中世の日本人の復讐心を克服する葛藤が込められているのです (清水克行「喧嘩両成敗の誕生」)。

裁判員制度では、国を挙げて、我々一人ひとりが自らを統治する、という民主主義の理想が制度化されています。事実認定のみならず、量刑まで判断します。人類史上、特記するべき壮大な実験です。

決して従順であったばかりではなかった我々のご先祖の苦労を偲びながら、我々は自分の権利としてこの裁判員裁判を成功させることができるはずです。

そして、各藩の封建的支配から中央集権国家へという移行を成し遂げた我々日本人の経験は、現代の地球大の民主主義をどう実現するかという人類の共通の課題にとって、大いなる示唆となるはずです。

4.このような問題意識なくしては、現代の日本において、裁判員裁判を語る意味がありません。

このような視点を抜きにすれば、ミスター司法行政こと矢口洪一元最高裁長官は、戦前に検察官より低かった裁判官の給料を戦後になって上げただけの人、矢口長官から、陪審制の調査のために欧米に送り込まれ、のちに裁判員裁判の生みの親ともなった、今年3月辞任したばかりの竹崎博充元最高裁長官は、面従腹背の徒となりましょう。

そうであれば、このたびの最高裁第一小法廷の決断は、日本のみならず、世界の民主主義を、そして人類の歴史を踏まえたうえでの決断に相違ありません。

そして、評議に苦労した裁判員の皆さんの納得する、最高裁の意向を図りかねて戸惑う現場の裁判官らを得心せしめる説明がなされるに違いありません。

民主主義に対しては、プラトン、アリストテレスの時代からの反対意見がありました。アリストテレスの「弁論」には、陪審で市民に事実認定はさせても、量刑を判断させてはいけないとの主張がなされています。賢人政治がその理想です。

このたび、我々に民主主義の神髄を示してくださる現代の賢人の方々を、我々は決して忘れてはなりません。

そのお名前は白木勇裁判長、櫻井瀧子裁判官、金筑政志裁判官、横田尤孝裁判官そして山浦善樹裁判官。