2009.06.23
裁判員の役目は死刑にしてはいけない者を発見すること
1.子供が目の前で殺人者の手によって今まさに殺されようとしているとき、その犯罪者を殺すことは正当防衛として許されます。
しかし、いったん殺人事件が発生した場合、裁判が始まっても、その結果は、当然に死刑、とはなりません。
間の命は皆等しいはずだ。そうだとしたら、人を一人殺した者は死刑、が当然のようにも思えます。それでこそ、人の命の等価関係が実現する、そうも思います。人の命はかけがえのないものであり、どの個人の命も同様に重いとすれば、そうなるはずです。
しかし、現に日本で行われている裁判では、人を一人殺せば死刑、とはなっていません。被害者が一人でも死刑になるのは、現実には、計画的に身代金目当てに幼い子を誘拐して殺したなどの事情がある場合です。犯行自体が、特に残虐性が著しいなどの事情がある場合も、被害者が一人でも死刑が適用されることがあります。
死刑に値するかどうか吟味し、死刑に値しないとなったら、死刑にしてはいけないのです。それは、刑事手続きには、罪と贖罪の葛藤、許しを認めるアジールの精神が、伏在しているからです。
正義のあり方が、その適用場面で異なることがある、ということです。
かつては、殺人があると、その殺人者のみならず、その家族、一族が殺されることがありました。そして、報復が報復を呼び、暴力は拡大しました。
また、死刑の方法も、麻薬を飲ませて痛みを感じなくさせたうえで、その肉を少しずつ切り取っていくとか、馬車で八つ裂きにするとか、残酷な方法が用いられていました。
しかし現代の日本では、犯罪者が被害者を何人殺しても、死刑は絞首刑であり、犯罪者一人の責任が問われるだけです。
すでに、相当程度、日本の刑罰は、「個人化」され、「社会化」されているのです。
2.我々は、刑事手続きを中心とした司法制度と警察の存在により、過去とは比較にならないほどの平穏な生活を日々営んでいます。仮に、それらを無くしたとしたら、また日本の中世のように、お互いに警戒しあい、緊張した生活を余儀なくされるのです。
ですから、わが子を殺そうとする犯罪者がいた場合、その者の命を奪ってでもわが子の命を助けようとすることと、いったん殺人事件が起こった場合、そしてその犯罪者が見つかり、裁判になり、その者に死刑を科さないこととは矛盾しないのです。
人を殺したからという理由で直ちに死刑にしないのは、法と警察に護られている我々の支払う代償です。
個人個人に割り当てられた人格的正義と、司法制度に割り当てられた社会的正義とは、その様相を異にするのです。これは、単に正義は相対的なものだと主張するものではありません。正義の実現が、ある場面では、個人にも委ねられているということです。
実定法でも、それを伺うことができます。窃盗、強盗犯が自宅に侵入した場合、その犯罪者に対する防衛行為に行き過ぎがあっても、違法とならず処罰されない範囲が拡大されています(窃盗等ノ防止及処分ニ関スル法律)。
個人個人に自由に活動する場を保障することは、総体的に正義の実現する場を増大させるはずです。
3.殺人事件があれば、報復を求める声がわき起こります。我々は、自分の心の中にも、そのような気持ちがわき起こるのを抑えることができません。ことに、自分の子供たちが同様の目にあったとしたら、必ず復讐を誓うであろうと、想像します。
しかし、いったん裁判が始まり、裁判官や裁判員として判断を求められれば、公平な第三者として判断する必要があります。
判断者は、一旦は被害者になりきって、一旦は犯罪者にもなりきってその立場になって考えてみる必要があります。スイッチを切り替えて判断することが必要です。
殺人事件であれば、被害者や遺族の立場に立つと、犯人を八つ裂きにしても足りないと思うでしょう。その犯罪に相応しいのは、少なくとも被害者の命と等価関係にあるもの、すなわち犯罪者の命、刑罰では死刑となります。
次に犯罪者の立場になって、どうしてそのような犯行に至ったかを考えてみるとどうでしょうか。彼は、抗うことの困難な強い衝動に見舞われたのかもしれません。あるいは、彼の魂が、絶望的なまでに孤独のうちにあったのかもしれません。犯行の前に、その孤独から、我々は彼を救い出すことはできなかったのでしょうか。
双方の立場に立ってみて、そのうえで、被告人はなお生きる価値があるかどうかが裁かれるのです。
その判断には、あなたの全生活、知識、経験、勇気そして良心がかかっているのです。
我々のとるべき態度は、犯罪者に対する憤激のまま直ちに彼を社会から放逐し、我々自身の社会を閉ざしてしまうことではありません。そうなれば、我々が守ろうとする、その当のものが、我々の手から零れ落ちて失われてしまうからです。
あなたが裁判員として、その場にいるとすると、あなたは、死刑にするべきでない者を死刑にしないために、裁判員に選ばれたのです。
4.新聞報道を見ていると、凶悪犯罪が無い日は無いかのようです。犯罪が増加し、ますます凶悪化しているかのようです。
しかし、統計的に見ると、なお日本は、世界的に見ても治安はよく保たれており、凶悪化が特に進行しているとは言えません。犯罪の急増、凶悪化と見えるのは、かつての日常生活と、それ以外の生活との境界が失われて、「体感治安」が悪化しているせいであるとの指摘があります(河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」)。
そうだとすると、犯罪を減らすためには、厳罰化が必要であり、それだけが唯一の解決方法である、との考えは間違いです。犯罪者を生み出さない社会、仮に犯罪者となっても、その社会復帰を真剣に社会全体のこととして考える仕組みこそが、必要となります。
最近出た本「日本の殺人」(河合幹雄)は、とても参考になります。
5.アリストテレスは、その書「二コマコス倫理学」において、正義について論じました。そして、等価交換を内容とする交換的正義と、その者にはその者に相応しいものを与えるとする配分的正義とを区別しました。交換的正義と配分的正義との関係については、必ずしも明らかではなく、その点をめぐって2000年以上、議論が続けられています。
しかし、話は単純で、当事者が二人の場合には交換的正義が、三人以上の場合には配分的正義が妥当するということなのではないでしょうか。そうだとしても、その関係は、決して単純ではありません。
進化生物学では、生物の紛争と協調の関係について、ゲームの理論を中心に研究が進められています。かつてはドーキンス流の利己的遺伝子を強調する立場が一世を風靡し、個人よりも小さな単位である遺伝子が、進化を決定するとの議論が定説でした。しかし、その後、個人よりも大きな単位を考える集団選択を重視する説が復活し、現在、大論争となっています。日本の生物学者は、過去の引っ掛かりがあるからか、なかなか後者の本を翻訳してくれず、日本の読者は、偏った知識のまま、放置されています。最近、生物学以外の分野から、そのような翻訳が、あるいは自書がだされるようになったことは喜ぶべきことです。
遠からず、アリストテレスの正義論も、数理的に解決される日がくるのでしょうか。
それまでは、覚悟を決めて、「自分の正義論」を、胸に養い育てるしか他に方法はないようです。