2009.06.20
死刑宣告者の心構え
1.死刑と団藤重光教授
刑法の団藤重光東大名誉教授といえば、斯界(しかい)の権威です。今上陛下に、ご進講をしたこともあります。たくさんの人が教授を慕っています。私も、司法試験の受験生時代、先生の本を読んで勉強しました。
団藤教授は、それまで死刑廃止論に「傾いていたものの」、踏み切れないでいたところ、最高裁判事になって、実際に死刑事件を担当し、法廷での死刑判決言い渡しの際、傍聴席から「人殺し!」との罵声を浴びせられ、それが契機となって、積極的な死刑廃止論に転じたことは有名です。ご自分でも認めており、著書「死刑廃止論」に書かれています。
さて今年(2007年)2月21日の朝日新聞朝刊によると、団藤教授に「人殺し!」との言葉を投げかけたのは、死刑廃止運動家の、ある女性だとのことです。その死刑廃止運動家らは、最近まで、最高裁の法廷で、死刑判決言渡し直後に、傍聴席から、最高裁判事に対して、抗議の意味を込めて、「人殺し!」と叫び続けていたそうです。
私は、団藤教授に向かって叫んだのは、被告人の親族だとばかり思っていました。前記の教授の「死刑廃止論」にも、「法廷の傍聴席に来ていた、おそらく被告人の家族かと思われる二、三の者から、裁判官席に向かって罵声が飛んだ」と記されているので、団藤教授も、当時は、そう思ったのです。
教授は、今では、自分に罵声を浴びせたのが被告人の親族ではなく、死刑廃止運動家だったことを知っているのでしょうか。それとも現在なお、事情をご存知ないのでしょうか。(平成19年2月24日記)
2.死刑の根拠
殺人があったとき、どの時代どの場所であっても、人々の間に恐怖や不信感が波紋のように拡がります。これを放置すれば、暴力が暴力を呼ぶ事態となります。そこで、これを収拾して、社会構成員相互間の信頼関係を回復する措置が必要になります。
歴史的にみると、古代においては、生贄という呪術により暴力を転化しました。やがて、決闘、仇討ちという作法を定めた儀式により、復讐を制度的に制限しようと試みます。そして現代においては、国家による法体系、具体的には警察と司法制度によって、犯人に刑罰を科し、国民を保護することになります。その際、裁判は、民主制の要となります。
こうして、人々は、再び、本来の通常の仕事や生活に復帰することができるようになるのです。
現代における死刑は、歴史的に洞察すれば、その背後には、被害者・遺族による復讐の儀式や、暴力が治まるようにと祈る呪術が、折り重なっているのです。
したがって、死刑判決を言い渡す者に要求される心構えは、次のようになるはずです。すなわち、いったん明鏡止水の心境になって証拠を吟味し、本当に被告人の犯行であり、今・この国において被害に見合った必要な刑罰であるとの判断に至れば、果敢に刑の宣告をすることを要し、かつそれで足ります。その判断に至らなければ、無罪を言い渡すだけです。その後の気持ちの揺らぎは有害無益です。あとに彼に残されているのは、ただ、祈ることだけです。この決断により暴力が終わりますように、との祈りだけが死刑宣告者の心の隙間を埋めることができるのです。(平成19年3月6日記)
3.裁判官の心理
壇上の男が前に進み出て、両手を上にかざして叫んだ。
…死者よ。天上の死者よ。殺人者に殺された者よ。死刑に処せられた者よ。冤罪で死刑になった者よ。照覧あれ。
私は今この被告人をそちらに送り出すことを決断し、死刑を宣告します。私は、裁判を通じて、被告人が本件犯行の犯人であることを確信しました。彼の犯行は、あまりに酷く、我々の人間性に対する信頼を裏切りました。我々は、もはや彼を仲間と認めることはできません。彼は、その命をもって、その罪を償い、地上に残された我々に、人はどのように生きるべきかを示し続けます。そのとき、我々は、彼を再び我々の「仲間」として迎え入れることでしょう。
願わくは、私のこの決断が、復讐の連鎖を断ち切り、人々の精神的紐帯を再び甦らせることを。そして再び平穏が訪れることを。…
これを叫んだ男とは、この私です。平成16年4月28日、さいたま市内で、日弁連、関弁連、埼玉弁護士会の共済で、「死刑の存廃」について、シンポジュームが開催されたときの一こまです。私も、死刑存置論の立場からパネリストとして出場し、死刑判決を言い渡す裁判官の心理描写として、このパフォーマンスを演じました。日弁連のホームページで、裁判員制度のもとでは、裁判官だけの問題ではなく、重要な視点であると紹介されました。
死刑制度の存廃問題に関連して、死刑を言い渡す者の心理、気持ち、心構え、については、今まであまり議論されてきませんでした。死刑判決を言い渡す裁判官のプレッシャーは相当なものであると想像されます。我々は、今まで、この過酷な課題を、ひとり裁判官に押し付けてきたのです。(平成19年3月10日記)
4.裁判員の場合
あなたは、裁判員になったとき、被告人に死刑を言い渡すプレッシャーに耐えられますか。
今般、裁判員制度が成立しました。これによって、量刑が厳しくなるのか、緩やかになるのか、議論のあるところです。しかし、より本質的な問題は、裁判員が、死刑を言い渡すべきか否かの問題に直面する場合がありうることです。そして、死刑相当の判断に至ったときは、裁判員すなわち市民が、死刑を宣告することになります。
アイスキュロスの悲劇「オレステイア」では、父を殺した母を殺したオレステスが、市民の陪審裁判で裁かれます。判決が言い渡されたそのとき、彼を追い詰めていた復讐の女神たちは、慈しみの女神たちにと、その姿を変えます。暴力が暴力を招く事態に終止符を打つには、正当な司法制度が必要であることを分かりやすく教えてくれます。また、そのような裁判でなければならないのです。この物語では、弁護人の巧みな弁論のおかげもあって、オレステスは、無罪になりました。
現代の裁判では、被告人が本当に犯人であるのか、今、この国で、その犯行が死刑に相当するのかどうか、十分に検討することが期待されています。裁判は、復讐の連鎖を断ち切る「聖なる」企てなのです。
裁判員になって、この問題に直面した人は、有罪、無罪、どのような結論を導き出そうとも、民主制の要となる重要な役割を演じることになります。心からの声援を送ります。(平成19年3月17日記)