2021.07.01
「シン・クレーマー」の時代に備えよ-「お客様は神様でございます」からの脱却を
1.私は、昭和63年から、弁護士として企業法務に携わると同時に、反社会的勢力を相手に民事介入暴力(民暴)事件に取り組んできた。暴力団組事務所の明渡請求などの事件では、それなりの成果を挙げてきたとの自負がある。現在もなお、組長に対する損害賠償請求事件や振り込み詐欺、フロント企業などの問題は依然としてあるが、これまで、警察や裁判所の協力を得、新法令、条例の制定、一般市民の意識向上とともに、全般的には、成果をあげつつあることを実感する。関連して従前からクレーマー対策が叫ばれており、一般市民向けの本なども出版されていたが、最近あらたな局面を迎えたことを感じる。「シン・クレーマー」の登場である。
それは、相手の企業等の経営や業務に関して苦情を申し立てるが、特段、金銭や物品、便宜を図ってもらう等の自分の利益を求めないクレーマーである。例えば、コンビニで、商品の品質や値段に苦情を言うのではなく、商品の配列が下手だ、こうしろ、と要求する客。病院で、自分の順番がなかなかこないのに腹を立てて怒鳴り散らす、というのではなくて、順番待ちのシステムをこう変えろと、受付や責任者に何時間でも話し続ける患者。市役所の窓口で、担当者に、自分に便宜を図れと要求するのではなく、窓口をこう変えろ、議会の傍聴席をこうしろと直接指示し、それが通らないと何時間でも居続ける市民。
2.シン・クレーマーの目的は何か?どうも、既存の社会の仕組みや制度を理解していない、あるいはそれに逆らっているようなのである。現代においては社会的分業の結果、例えば小売店では店が商品を並べ、それに値段をつけ、それに対して客が商品を選ぶという仕組みになっている。その商品に対してその値段では要らない、と言う場合には、その商品を買わない、あるいは他の店に行く、という対処をする。シン・クレーマーは、その商品と値段をシグナルとする商取引という貨幣経済の原則を無視し、経営者でもないのに、店に対して商品の配列などを、こうしろと要求する。また、患者は、病院と医療契約を合意しているだけである。病院の業務内容や経営に口をはさむ権利はない。それでもシステムをこう変えろと主張して譲らない。地方自治体の行政は、市民の選挙権、被選挙権を通じて選ばれた町長、議員が官僚による行政運営・監督等の任務にあたる。これに対して、市民個人は、原則として行政運営に直接携わる制度はないにもかかわらず、市役所で自分の意見を通そうとする。選挙権、被選挙権を行使することを通り越し、議員または市長でもないのに、その役目をやろうとする。
その背景には、現代社会における個人の孤独、肥大化した万能感、視野狭窄、義務を果たさず権利ばかりを主張する、自分の意見に固執し他人に押し付ける態度、剥き出しとなった野蛮、国家・イスタブリッシュメントに対する不信・侮蔑、伝統・先人の業績に対する尊敬の念の不在・無視、「法」の無視、知識人・専門家の大衆化などの要因がありそうだ。オルテガが、90年程前に「大衆の反逆」で剔抉した事態である。
3.ただ、クレームには、みるべき提案が含まれていることもある。私は、よく顧問先の企業に対して、クレーム、クレーマーは宝の山だよ、と言う。表現、態様には問題があっても、クレームの内容は、企業の運営を改善するヒントが隠されていることがあるからだ。シン・クレーマーにも、そのような面があることは否定できない。
これらシン・クレーマーたちは、今ある社会の仕組み、制度ができる前の社会を想起させる。現在の社会制度ができるに当たっては、歴史的に、激しい競争、闘争、議論、時には暴力等々があった。そのカオス、あるいは豊穣を感じさせるのである。語弊があるかもしれないが、私は、民暴対策に当たって、相手からそのようなエネルギーを感じることもあった。
問題は、シン・クレーマーによって、現場の者が疲弊するなど、組織を瓦解せしめる恐れがある、ということである。小売店の従業員は、「お客様は神様でございます」と経営者に教えられ、病院のスタッフは、患者を受け容れることが大事と言われ、市役所の職員は、市民の声を大事にと諭される。昭和の時代であれば、「今忙しいので後で」と一蹴していたことも多かったと思われる。令和の今、それは許されず、顧客ファースト、患者ファースト、市民ファーストを押し付けられ、何らの対策もとられないまま、そのもたらすところは、従業員、スタッフ、職員の疲弊であり、上層部に対する不信であり、それは組織を崩壊させる原因となる。
4.シン・クレーマーの解決方法は、民暴と同じで、法による解決を目指すことである。法治国家の基本に立ち返り、法に従った解決を目指すべきである。場合によっては、仮処分を含む訴訟もやむをえない。何が法か、という根本的議論はいつも意識している必要はあるにしても。国民各層の意見を公平に掬い上げて解決することが期待されているのは、裁判所をおいて他にはない。
その際、専門家である弁護士の助言は、重要であり、有用であろう。クレーマーの要求で、何が顧客、患者、市民として許される内容、態様であるか、その一線を何処に引くかは難しいが、その一線は必ずある。それを確定するためには、弁護士の意見、見解が、役に立つであろう。また、平時には有能な組織であっても、有事にはうまく機能しないこともあろう。そのようなときに、何が問題であり、解決のためにはどのような手段があるかを心得た弁護士は、心強い味方となることであろう。
いずれにしろトップの姿勢は大事である。トップが現場の苦労を理解し、解決することを決意するべきだ。企業の社会的信用や、医師の応召(応招)義務(医師は診療を求められたら、正当な理由がない限り、拒んではならない)、市民サービスの理想などとの狭間に立たされ苦しいとは思うが、いったん決めたことは不退転の決意で臨んでもらいたい。シン・クレーマーを特別扱いすることによる、他の顧客、患者、市民らに対するサービスの低下、会社、病院、役所が被る更なる不利益の増大、拡大を考えれば、指導者は、時を置かずに決意、実行しなければならない。
5.警察や、裁判所も、シン・クレーマーに対しては、まだまだ慎重なようだ。本人の利得が認められにくいシン・クレーマーについては、警察も裁判所も扱いに困るのであろう。一市民が市庁舎内で、苦情を言い続け、職員のお引き取りくださいとの言葉にもかかわらず、夕方から深夜零時過ぎまで居続けた実例があった。私は、当該事例では、刑法の不退去罪が成立すると考えるが、現場に到着した警察官は、相手に対する説得を数時間にわたり続けるだけであった。裁判所も、面談禁止の仮処分を申し立てても、要件の認定に手間取り、迅速な判断が示されないことがあった。
今、弁護士の間でも、このシン・クレーマーに対する対策を必要だとする声が広がっている。民暴の黎明期には、警察の民事不介入の原則を打開するべく、警察、裁判所らと知恵を出し合って解決を模索していた。あのころのように、健全な市民社会を実現するべく、弁護士、裁判所、警察、行政庁、立法府、関係者らその他の一般市民が、知恵を出しあって、解決策を見出したい。
シン・クレーマーには、「ルール」の存在すること及びそれに従うことの必要性・重要性を学んでもらわなくてはならない。
6.そのうえで、シン・クレーマーが提起した問題自体についても、それがより望ましい社会秩序を実現する契機を孕むと認められるものについては、併せて解決が図られるべきである。これは、とても創造的で、魅惑的な仕事になりそうな予感がする。なぜなら、それは、今ある社会の仕組みや制度に捉われずに、あるべきであった理想の仕組み、制度、権利を、想像力を駆使して、皆で議論し知恵を結集して追求する企てでもあるから。その際、参考となるのは、ハンナ・アーレントの「公共性」の議論である。共同体の構成員が自由に発言し、議論を尽くして、公共の事項は決定されるべきである。
シン・クレーマー自身も、その重要なメンバーだ。何故なら、彼の言動が「公共性」の場への異議申し立てである限り、メンバーである我々は彼を訴訟内外の和解等の評議の場に引っ張り込み、参加させ、彼と討議して、「公共性」とは何か、を追究しなければならないからだ。アイヒマンを「許し」たハンナ・アーレントの覚悟とともに。