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秩父事件

初出:関弁連だより「私の故郷の著名事件」(埼玉県)
2001年12月号

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

明治17(1884)年、秩父を中心に、大規模な農民の蜂起があった。秩父事件である。前年から、各地で、多くの農民蜂起が起きているが、秩父事件はそのうちの最大のものと言われる。

背景として、折からの松方デフレによる養蚕農民の経済的困窮、加えて世界恐慌による生糸輸出の減少があったことが指摘されている。秩父の生糸は当時の国際商品として、国際経済に組み込まれていたのである。ベルギー、フランス、イギリス等でも秩父事件が報じられた。

思想的には、板垣退助の自由党の影響、ひいてはルソーの啓蒙思想があったと言われている。事件に先立ち、大井憲太郎が秩父で演説をしている。それから秩父困民党の成立を見ている。

秩父困民党の中心メンバーである田代栄介は、請われて困民党の幹部になったそのとき、命をかける大事であることをメンバーとともに確認し合っている。

秩父困民党は、当初、債務免除の請願運動など合法的活動をしていたが、容れられず、10月30日には、一部の農民が武装活動をはじめた。

11月1日、秩父困民党は、秩父郡吉田の椋神社の境内において、田代を「総理」として、軍律と役割表を発表して組織を編成し、借金の返済10年据え置き、40年年賦等の要求を掲げ、武装蜂起した。農民の総数は数千。一時、秩父市内を実行支配した。軍用金の徴収に当たり「革命本部」の受領証が発行された。

事件は、明治政府を震撼させ、政府は軍隊の出動をもって、これに応じた。農民らは、警察、軍隊と衝突し、10日間も続いた激戦のすえ鎮圧された。

秩父困民党が、そして個々の農民が、どのような志を抱いていたのか、なお研究の余地はあろう。しかし、単なる暴動のために、数千の農民が徹底して抗戦したとは考えられないのである。フランス革命でさえ、一本道ではなかったことが明らかにされている。

秩父困民党の「総理」田代栄介を、現在の職業分類で言い表すのは難しい。秩父の名門の家に生まれ、農業(養蚕業)を営んでいた。その傍ら、紛争があると間に入って仲裁をしていたと自ら語っている。これを代言人と考えれば、田代を我々弁護士の先輩と言ってもよかろう。そして、生来、強きを挫き、弱きを助けるのが好きで、子分が200人余りいたというのであるから、「侠客」、「親分」である。人望の厚い、町の顔役と言ったところであろうか。しかし、ただのボスではなかったであろうことは、法廷で、フランス法は高利貸しを禁じる、と弁じたことが伝わっていることからも伺える。

我々は、弁護士の心構えとして、「当事者」にはなるな、依頼者から距離を置け、と教えられてきた。これは、面倒に巻き込まれるな、という戒めだけではないであろう。弁護士も、法治国において、法を貫徹し、維持するシステムの一部であることの自覚を求めた教訓と考えるべきである。しかし、社会が激動し、「法」が確たる姿を見せないとき、我々法曹は、どう動くべきなのだろうか。与えられた「法」に唯々諾々と従っているとき、我々は、マックス・ウェーバーの言う「心情なき専門家」に堕しているのである。我々のうち何人が、自分の信条に殉じることができるであろうか。己の信ずる「法」を求めて、活動する者こそが次の時代を作る。

田代は、死刑に処せられた。秩父事件が、自由民権運動の最も激化した事件と積極的に評価されるようになるまで、彼は「暴徒」であった。

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