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(平成16年5月21日(金)午後9時6分埼玉共済会館5階にて)
発起人 大塚嘉一
すでに会場の使用時間をとうに過ぎておりますが、発起人の一人として、最後のご挨拶を申し上げます。
ご案内のとおり高野先生は、今年4月から早稲田大学法科大学院の教授に就任され、同時に我が埼玉弁護士会を離れたわけですが、これまでの当会での刑事弁護活動を労い、さらに先生を激励しようということで、本日の会を企画いたしました。
まず先生自身に、思い出や抱負を語っていただいたのですが、当方からは20分以内で、と申し上げておいたのですが、お世話になった方々のご紹介を含めてのユーモアを交えたお話は、50分以上続きました。事件を起こすのではない、事件に巻きこまれてしまうのだ、というのが、先生の弁でしたが、同情する人はいませんでした。また高野先生の事件をいくつも担当し数々の著名判決を出した当時の浦和地裁の木谷判事がいなければ刑事弁護を止めていただろうとの言葉が印象的でした。
引き続き、関係の深い先生方にご挨拶をいただきました。皆さんに共通するのが、刑事弁護士としての高野先生のご活躍ぶり、刑事弁護に目覚めさせられたこと、また先生の魅力的なお人なりについてです。先生がまいた種は、確実に、埼玉弁護士会で花を咲かせております。出席者の誰もが、最後まで、清聴していました。有意義な会合であったという声が会場から多く聞けました。
刑事弁護士高野隆の活躍については、すでに皆さんに言い尽くされたようですので、私は、それ以前の高野隆、いわば「原」高野隆について、ご紹介いたしたいと思います。
私は、春日部高校で、先生と同級で、同じクラスでありました。当時、高野は、長髪で、肩まで髪をなびかせ、バンドでドラムを叩いていました。映画を撮っていました。出席日数も足りませんでした。女性と懇ろになっていたという者もあり、そうではないという者もいました。そんな高野ですので、教師から睨まれていました。彼も、対立を避けようとはしませんでした。真夏の太陽の照り付けるグラウンド、全クラスメートの注視するなか、教師と対峙する彼の姿が忘れられません。教師にも一部に彼の理解者がおり、X先生が、出席日数をおまけしてくれて、彼は卒業できました。
当時の私はといえば、毎日柔道の鍛錬に余念がなく、なんであいつは先生の言うことが聞けないんだろうと訝る頭は、もちろん坊主刈でした。その後彼とは大学で再会し、さらには一緒に仕事まですることになるのですから人生は不思議です。が、それはまた別の話です。
対立を厭わない、むしろ望むところであるという性向は、高野の生来のものなのでしょう。ニーチェなら、彼に、旧弊を打ち破るために生まれてきた「金髪の野獣」を見出すことでしょう。加えて、当時の彼は、詩人になりたかったのです。ペリーメイスンが好きでしたから、弁護士は選択肢としてあったと思いますが、本当は詩人になりたかったのです。会社経営をしながら読書家でもある彼のお父さんの影響かも知れません。
高野先生は、アメリカ留学で、刑事弁護に目覚めた、とおっしゃっていましたが、議論の対立点を際立たせ、刑事手続きの理念から自説を説き起こす雄弁な弁護活動のスタイルは、先生独自のものです。その素地、詩人の魂をもった金髪の野獣は、すでに高校時代からあったのです。それが、アメリカの刑事手続きを知ることをきっかけとして、刑事弁護での数々の成果として、結実したのだと思います。もちろん、先生も認めるように、ここにお集まりの皆さんをはじめとして、多くの方々の理解と、協力があったからこそと思います。
先生の詩人の魂に触れる機会を持ち、それを感得できた幸せな人々が、先生のファンになれるのです。先生とは、意見を異にする人、対立する意見を持った人のなかにも、先生を応援する人がいるのが、先生の魅力を物語ります。
法科大学院ではどうか刑事弁護の魂を、後輩のためにご指導ください。この場を借りて、高野先生の今後のますますのご活躍をご祈念申し上げます。先生には、法科大学院で衝突したら、もう衝突しているそうでありますが、追い出されたり飛び出したりしたときは、埼玉に春日部高校のX先生や木谷判事と気持ちを共有する者が、こんなにもいるんだということを思い出してください、と申し上げておきます。
本日の出席者は、53名でした。いただいた会費の中から、記念に後ほど先生に時計を贈呈することを報告させていただきます。
本日は、ありがとうございました。