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美しいものと美しく生きること
1.美しいものには目がありません。
美に固執するあまり、道を誤りかけたことが、これまでも幾度かありました。
美しいものは、美術品に限りません。美しい音楽。美しい物語り。美しい自然、等等。
美しい(善き)生き方というものがある、と紀元前4世紀のアテネでソクラテスが言い出したとき、それまでのイオニア流の自然哲学から分離独立して、今日言うところの「哲学」が誕生したのでした。
2.「見返りの鹿」が好きです。島根県の松江市平所遺跡から出土した埴輪です。紀元6世紀前半ころの作と推定されています。菱川師宣の「見返り美人」にも通じるものがあります。
愛しい人との別れを惜しみ、去り行くその後ろ姿を見つめています。と、その人が振り返ります。映画ならスローモーションになるところです。相手の眼も、私の姿を求めている!作者は、気持ちが通い合うその瞬間の相手の姿に鹿を見立てたものに相違ありません。そう了解したとき、1500年近くの時を隔てて作者の魂と私の魂とが、お互いに、この宇宙で孤独ではなかったんだ、と共鳴し合います。
鹿が餌を食んでいたところが、外敵を警戒して首を挙げて周囲を見渡しているのだ。と言いきる人とは、話が弾みそうにもありません。
本来は正面を向いていたものが、釜で焼くときに何かが落ちてきたかして、首が曲がっただけだろう。そんなことを言う人は、私の目の前では、言い終わる前に、私に絞め殺される覚悟が必要でしょう。
3.美しいものを求める心情が、そのまま美しく生きることにつながる、というわけではありません。
美を求める情熱の背後には、デモーニッシュ(悪魔的)なまでの生への衝動があるはずです。「もしはじめに美と矛盾したものが自らを意識しているのでなかったのなら、もしはじめに醜悪なものが『私は醜い』と自分に向けて言っているのでなかったのなら、『美』とはそもそもなんであろう?」(ニーチェ「道徳の系譜」)。
美術鑑賞は単なるお嬢様芸ではありません。つきつめれば、自分の中の悪を飼いならす鍛錬の場でもあります。茶碗を愛でる戦国武将のように。
4.ここのところ、毎日、辻惟雄(つじのぶお)の近著「日本美術の歴史」(東京大学出版会)を、数ページずつ読んでいます。面白くて、もったいなくて、一気に読み通せないのです。
「奇想の系譜−江戸のアヴァンギャルド」(1968年)と同じ著者とは思えないほど、平穏な叙述と感じるのは、本書が教科書として書かれたという以上に、最近人気の伊藤若冲についてかねてより積極的に評価してきたことなど著者自身の「奇想力」に世間が慣らされたせいかも知れません。
本書で、日頃気になっていた美術品が、日本美術のどのあたりに位置するのか、確認するのも楽しいものです。
作品の背景が丁寧に解説されているので、日本史の復習にもなります。
破り捨てられることなく、次に読まれるのを書棚でじっと待つその本の、横尾忠則の手になる美しい装丁の表に配されるは、私のもう一つのお気に入り興福寺阿修羅像。
闘いの神なのに、何故かくも美しいのか。闘いの神、だからこそ美しいのか。