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大審問官
1.至近距離で拳銃を発射され、その頭部をこなごなにされる赤ん坊。飼い犬に怪我を負わせたというだけの理由で、犬をけしかけられ、ずたずたに食いちぎられてしまう子供。無辜の子供が苦しむこんな世界に神はいるのか、無神論者イワンが、敬虔なアリョーシャに問いかけます。イワンは、さらに自分が作った話を語り始めます。
…16世紀のスペイン、盲目の老人の目を見えるようにし、死んだ娘を生き返らせ、奇跡を起こす(イエスキリストを暗示する)聖人がいた。そこに、大審問官が通りかかり、彼を逮捕し、牢獄に閉じ込める。そして彼に言う。「お前は、人間はパンだけのために生きるのではない、と言って、世間を混乱させただけではないか。実際にこの世のパンを多くの人々に食べさせたのは、この私だ。お前は明日、火あぶりだ。」。彼は、無言のまま大審問官に近づき、キスをする。大審問官は、うろたえ、彼を街に放つ…。
2.ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の一節です。読書好きなら、高校生の時分に読んだという人もいることでしょう。でも大人になって今一度読みかえしてみると、きっと新たな発見があるはずです。読み手の姿勢によって、いくらでも大きな問題が立ち現れてくるのが、「古典」と言われる理由でしょう。
最近新訳が出て話題になっています(亀山郁夫訳・新光社)。この有名な「大審問官」の箇所も、訳者が自負するとおり、すらすら読めます。だからと言って、勿論、ここで扱われるテーマが消滅したり、簡単になったりするわけではありません。
「大審問官」の提起する問題は、今でも、多くの人に、さまざまに解釈され論じられています。
3.マックス・ウェーバーも、この問題を「職業としての政治」の後半で論じています。政治家に求められる倫理として、次のように主張します。
全能であると同時に慈悲ぶかいと考えられる力が、どうしてこのような不当な苦難、罰せられざる不正、救いようのない愚鈍に満ちた非合理なこの世を創り得たのか。この力には、全能と慈悲のどちらかが欠けているのか、それとも人生を支配するのはこれとは全然別の平衡の原理と応報の原理なのか。つまりこの世の不合理性の経験が、全ての宗教発展の原動力であった。
正しい行いをすべしという心情倫理と、結果の責任を負うべきという責任倫理とは、両立しない。政治は、暴力と関係を結ぶがゆえに、政治家に必要なのは、責任倫理である。魂の救済を願う者は政治に頼りはしない。しかし政治家にあっても、心情倫理をぎりぎりまで考慮しながら、責任倫理に踏み止まる者には計り知れない感動を覚える、と。
4.ホロコーストに直面した経験をもつユダヤ人を論じて、罪がなく苦しむ人を助けられない神なら神はいないと言うのは幼児である、「貧しき者を養う責任を負うのは私である。」と宣言する者(人間)が現れて初めて責任が生じるのである、という内田樹の論考(「私家版・ユダヤ文化論」文春新書)は、とっても刺激的です。
約束できることを人間の誕生ととらえたニーチェに通底するものを感じます。
5.大審問官にとって聖人のキスは、祝福、だったのでしょうか。