ナビゲーション
- 菊地総合法律事務所Home
- コラム : 平成21(2009)年のコラム一覧
- 月々のコラム
- コラム : 平成21(2009)年のコラム一覧
平成21(2009)年4月のコラム一覧へ戻る
イセゴリアと裁判員
1.一面の緑色の中に銀色が、波のように現れては消え、現れては消えするオリーブ畑が延々と続く、ここはギリシャ。緑はオリーブの葉の表、銀はその裏の色です。
昭和63年の春、私は、司法試験の合格後の2年間の司法修習を終え、開放感とともに、気の合った仲間数人と一緒に訪れました。民主主義揺籃の地という漠然としたイメージを持って。
丘の上のアクロポリス近くに到着した観光バスが、大勢の観光客を吐き出します。さらに岩だらけの道を足元を見ながら上りきったその先では、聳え立つギリシャの美を見上げる者たちの歓声があがります。
喧騒の中、私は、丘を下ります。向かう先は、民会(エクレシア)の跡地。
人気のないその場所で、古を想いひとり佇んでいると、何やら音がします。人の声のようですが、日本語でも英語でもありません。
ふと気がつくと、同行した仲間の一人が黙って怪訝そうに、傍らに立っていました。
2.紀元前4世紀ないし5世紀の約200年間、古代のギリシャにおいて、直接民主政が行われていたという事実は、人類の歴史における奇跡のようです。
古代ギリシャの東には、巨大な専制国家ペルシャ帝国があり、脅威となっていました。やがてペルシャの王は、ギリシャを攻撃します。圧倒的な兵力の差にもかかわらず、アテネを中心とするポリスの連合軍は、マラソンの戦いで、またサラミスの海戦で勝利を収めました。
ポリスの強みは、命を懸けて自由を守る決意をした軍艦の漕ぎ手であり、重装歩兵たち市民でした。アテネは、ポリスの集まりであるデロス同盟の中心的存在となります。
ヘロドトスは、「歴史」において、ペルシャ帝国を打ち破った数あるポリスのなかで、とりわけアテネが強大となった理由について次のように述べています。
「こうしてアテネは強大になったのである。こうしてみると自由平等(イセゴリア)がすぐれたものであることは、単に一時においてのみでなく、万事においてであることが判明する。僭主政下にあったとき、アテネ人はかれらの近隣のどのポリスと比べても軍事において勝っていなかったのに、僭主から解放されるや、断然最強の兵士となったからである。圧政下にあったとき、かれらは僭主のために働くので故意に卑怯な振る舞いをしたが、自由を与えられると、各人が自分自身のために意欲的に働いたのだということが、これによって明らかである。」
ここに「自由平等(イセゴリア)」とあるのは、ισηγοριαというギリシャ語です。
イセゴリアは、民会(エクレシア)で発言を望むものには誰でも平等にそれを認める習慣、制度であり、ポリスの政治と密接な関係にあり、それゆえ、市民は自分の意思とポリスとの一体感を確信したのです(仲手川良雄「古代ギリシアにおける自由と正義」)。
イセゴリアに似た言葉に、パレーシアという言葉があります。パレーシアは、表現の自由に近いニュアンスであるのに対して、イセゴリアは、政治に平等に参加するという意味合いを強く帯びています。
アテナにおいては、民会のみならず、裁判においても、市民が直接参加しました。アテナの裁判については、今もアリストテレスの「アテナイ人の国制」に伝えられています。陪審裁判では、民衆が量刑まで判断していました。イセゴリアの発露にほかなりません。
ただし、個人の責任に任された分野は少なくありませんでした。
当時のアテネでは、婦人や外国人には権利が保障されていなかったことはもちろん、捨て子や子供の売買までが認められていました。
不貞の現場を押さえた者は、不貞の相手をその場で殺害しても、罪に問われませんでした。
ポリスの市民は、まず個人として、家計、子供の教育から、政治まで、自分で管理することが要求されました。
その中にあって、政治は、生活様式、ウェイ・オブ・ライフに組み込まれていたのです。
古代ギリシャ人にとっては、民会、裁判所、部族会議、劇場さらには日常生活で、自由に語ることは自由そのものであり、彼らの生命と活力の源泉であり、それができない者は無権利と無力の中にとどめ置かれました(仲手川・前掲)。
警察も、職業裁判官による裁判もなかった時代には、個人個人が、その生存を、その安全を、そしてその財産を、責任をもって維持しなければならなかったのです。
3.後にイギリス人のJ.S.ミルは、古代のアテネの陪審裁判を、「平均的なアテナイ市民の知的水準を古代か近代かを問わず、いかなる他の人間集団の実例よりも、はるかに高く引き上げたのであった。」と、評価しています。そして、自国の陪審裁判が、同様にイギリス国民の創造力を高めたことを指摘したのでした。
イギリスの陪審裁判は、歴史上の偶然ともいえる事情から誕生しましたが、19世紀前半には、イギリス人が世界に覇を唱えるに与って力があったのでした。
イギリスは、世界で初めて産業革命をなしとげ、危険をおそれない野心家を擁し、世界に進出し帝国を築きました。
ミルは、かつて世界で最も栄え、火薬、羅針盤、活版印刷など種々の大発明をなした中国が、その後停滞した事実をあげ、国民の画一化がその停滞の原因であると指摘しました。そして、国民の個性の多様性が創造の源泉であることを主張し、陪審制度には、国民を個性的にする政治的意義があることを強調したのでした(「代議政治論」)。
ミルは、古代ギリシャにおいて陪審制が国民の水準を押し上げたことと同様のことが当時のイギリスでも見られるというのです。
4.社会が複雑化して、分業が徹底している現代では、ポリスほど個人の自立は期待できませんし、認められてもいません。
各分野における専門家、専門の組織との協働なくしては、現代人の生活は、一秒たりとも立ち行きません。それぞれが、いちおうの信頼を置きながら、生活することを余儀なくされているのが現実です。
しかし我々は、共同体の構成員の相互の信頼を高めることによって、社会の有機的結合を強化し、共同体の活動を活発なものにすることができます。
我々は、産業社会に必然である分業化の要請により、自らの生存、安全、財産の保全や紛争解決を警察や職業裁判官にいったんは任ねましたが、今いちど、自分の問題として、自分に引き寄せて考えてみようというのが、裁判員制度の本質です。
裁判員に選ばれた人は、その任務を通じて、我が国の司法制度に対する国民の信頼を高めることを期待されています。
求められているのは、国家権力からの自由というだけではありません。
むしろ、もっと積極的に個人個人が国家の運営にこだわり、これをよりよくするプロジェクトに参加することが、強く求められているのです。そのためには、創造的な個人の力が必要です。
裁判員制度は、イセゴリアの精神とともに立ち現れるとき、民主主義の要となりうるのです。
民主主義を希望とする人々にとって、かつて法の支配のもと、生活の全局面に競争を持ち込み、これをルール化して、エクレシアを開き、陪審裁判を行なって、人間の精神を極限まで高めた人々がギリシャ半島にいたという歴史的事実は、今なお勇気の源泉であり続けます。
21年前、彼の地で聞こえたのは何だったのでしょうか。
風に揺れる木々の葉っぱの触れ合う音?
いいえ。
かつてエクレシアにおいては、伝令が、集まった市民を前に、「誰か発言したい者はいるか。」と宣言して回ったそうです。
あのとき聞いたのは、その伝令の声と、それに応えて演説を始めた市民の声の残響であったに違いない、私は今、そう確信しています。