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裁判員制度と裁判官の役目
1.裁判員制度は、関係各方面に対して変革を要求しています。中でも、裁判官に対するチェンジの要求は、最も強く、最も重要なのではないでしょうか。
専門家は、優秀であればあるほど、ある問題について、その根拠を問うことなく、結論を出すことができます。そのような修練、鍛錬を積んできたからこその専門家であるからです。
しかし、その反面、一般人の感覚から離れるおそれが生じます。その結果を、ニーチェにならって、心情なき専門家といってもいいし、マックスウェーバーのように、信条なき専門家といってもいいでしょう。
裁判官は、裁判員の意見を聞き、謙虚に耳を傾けなければなりません。必要とあらば、裁判員の抱く疑問点にも答える必要があります。
裁判官は、まずはヨーロッパに由来する法律の趣旨、近代の啓蒙主義を基に説明することでしょう。なぜなら、大学で、司法研修所で教わるのは、日本が明治維新以来、導入し採用してきたヨーロッパ起源の司法制度だからです。それを日本の市井の一般人に分かるように説明することが求められています。そのうえで、自分の信念なり信条について、話をすることが必要な場面があるかもしれません。
法律で決まっているから、量刑基準があるから、というだけの理由で判決を言い渡してきた裁判官は、「弾劾」されるべきです。「裁判官の化けの皮がはがれるかもしれない。」(平木典子)というのは、また意地の悪い言い方ですが、今回の改革は、真摯に事件に立ち向かう裁判官に、今一度、自分の立場について再考を迫るものであることは間違いないでしょう。
2.裁判官には、メリハリの効いた評議運営が望まれます。事実認定の問題については、自分の意見を極力控え、裁判員の自主的な意見を最大限引き出すことが求められます。
量刑の問題についても、まずは、裁判員の自由な量刑感覚を発言してもらうべきです。裁判員の求めがあれば、刑務所などの実態、再犯率、警察の捜査能力、などなどの資料を集め、収集して裁判員に提供することも有効かもしれません。もちろん、そのうえで、それによる裁判員の意見は最大限尊重されるべきです。
裁判官も個性を発揮するべきです。
裁判官にも競争原理を取り入れる、まるまるコートは素晴らしい、まるまるコートは威圧的だ、とか、そういう評判が広まる、顔の見える裁判所になる、そういうことが期待されているのです。
裁判員裁判の経験が蓄積されるにつれて、例えば量刑について、大いに参考になることがあるのではないでしょうか。学者との協同により大きな成果が期待できそうです。
また、刑事実体法で規定される社会的相当性、すなわち違法性阻却事由の社会的相当性であるとか、正当防衛における防衛の程度などの判断についても、多いに成果があがりそうです。
最高裁の姿勢が気がかりです。
最高裁は、職業裁判官による裁判を、実質的に維持しようとしているのでしょうか。
最高裁が用意した各種パンフレットには、裁判員制度の肝となるポイントが抜けています。そこには、近代法の大原則である無罪推定の原則、すなわち何人も裁判で有罪とされるまで無罪であると扱いをうけることが、一言も記されていません。裁判員が、主体的に、有罪の立証があったか否かを判断するのだということが、そしてそれこそが、今回の裁判員裁判の導入の一番の理由であることが書かれていません。
最高裁が、無罪推定の原則が書かれていないパンフレットを、今後も出し続けるのであれば、最高裁の今回の裁判員制度に対する姿勢そのものが問われることになります。
3.裁判員裁判では、裁判長が心すべきは、連歌のたしなみでしょう。
裁判官は、裁判員の発言が要領をえず、まどろっこしく感じるかもしれません。しかし、裁判官には、裁判員のエトスを感じとる感性が要求されます。
池上英子は、連歌など江戸時代に発展した身分の上下を問わない交流を「美的パブリック圏」と名づけ、それが政治や経済の制度に役立つ可能性を示唆しながら、次のように述べます。
「日本の美的パブリック圏の伝統は、儀礼のメカニズムを通じて、一時的にそれぞれがアイデンティティーを『スイッチ』することの重要性を強調しているが、これこそ日本の交際文化のなかでも最も美しい点かもしれない。一般的に言って、人と人との交流の場でよりよく交流するためには、心を開いて相手の言葉に耳を傾けることが必要だ。これをネットワーク的な言葉で言い換えれば、自らの既成の概念、つまり自己の既存の既知ネットワークからとりあえず離れるという心構えが必要だ。それでこそ相手の認知ネットワークと深く交差することができ、そこに水流が吹き出るように新しい何かが生まれる。そして実際に成功した人間交流の場、つまり『パブリック圏』では、社会的相互作用からくる興奮から、自ずと我を忘れるような感情の高揚がある。伝統的連結詩などの座の文芸は、実はこうした人間一般のコミュニケーションに当てはまる原理を高度に儀礼化、文芸化した形で提示していると言えるだろう。」(「美と礼節の絆 日本における交流文化の政治的起源」)。
私が、弁護士として依頼者から話を聞くときも同様の経験をすることがあります。
裁判官が、心を開き、裁判員と真剣に向き合ったとき、このような創発性(エマ―ジュエンス)の機会を、きっと経験することでしょう。
現場の裁判官が、(最高裁の思惑にもかかわらず?)そのような努力をし、経験し、それを活かすことができれば、今回の裁判員裁判は、大方成功したと言っても過言ではありません。
4.日本の裁判官は、日本人の能力を引き出す「産婆」(ソクラテス)の役を立派にやりとおせるはずです。