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平成23(2011)年7月のコラム一覧へ戻る
将来の大統領のための物理学
1.リチャード・ミューラー著「将来の大統領のための物理学」(Richard A. Muller Physics For Future Presidents 2008)。
カリフォルニア大学バークレー校の物理学の教授ミューラー先生は、文科系の学生を相手に、物理学を講義しており、大変好評だとか。その講義が、この本のネタとなっています。
世界の指導者が知っておくべき科学知識の基本を、要領よくまとめてあります。
現代のように、科学技術が広く全世界に影響を及ぼす時代にあっては、その知識は指導者の必要不可欠の素養であるはずです。
このたびの福島第一原発の事故を予言するかのように、原子力発電所の事故についても詳しい説明があります。原子炉の冷却水が流失した場合の最悪の場合の危険についても明確に述べられています。連鎖反応は即座に停止するものの、核燃料の崩壊熱が上昇し最後には融解に至ることが。
2.現状を見れば、日本の指導者が、この本の水準の知識を持ち合わせていなかったことが明らかです。悔やんでも悔やんでも、悔やみきれません。
正しい知識を持っていた人がいたことは間違いがないでしょう。
問題は、それが、このたびの事故の際に、この国の指導者に伝えられたのか、伝えられなかったのか。伝えられたとしたら、誰からどのように伝えられたのか。何か問題があるとしたら、それは人的な問題なのか、組織的な問題なのか、それともそれらが絡み合っているのか。指導者個人に知識が欠けていても、それを補佐する人なり組織はなかったのか。
時期がきたならば、その点を究明しなければなりません。その人の責任を問うためばかりではなく、何より我々とその子孫が生き延びるために、絶対にしなければならないことです。
本書のはしがきには、「ほとんどの人々についていえば、問題なのは無知ではなく、知っているという思い込みである」との格言が紹介されています。今回の原発事故が起こるとすぐ、「俺は、原子力発電については、ものすごく詳しいんだ」と言った人がいるそうですが、まるでその人に対する、当て付け、皮肉であるかのようです。
このたびの事故において、アメリカでは、すぐに専門家の知見がオバマ大統領に報告されたそうです。そして、日本国と協議しようとしたところが、日本にはカウンターパートがいなかったということです。
3.著者は、科学知識が万能だと主張しているのではありません。
チェルノブイリの住民を避難させたことが正しかったのかどうか、という問題を提起して、それは科学の問題ではない、と断言します。科学は、選択の結果を示すことだけである、と。
科学と政治の問題に対する潔い姿勢だと思います。
政治の出番です。
そしてマックス・ウェーバーのいう、良い悪いの心情倫理ではなく、結果を見据えた責任倫理をもった政治家の判断が必要となります。Aを救うために、Bを犠牲にするという、ぎりぎりの決断をしなければならない場面もあるはずです。
しかし日本国民は、この国の指導者から、今回の事故について科学的にどのように判断しているのかを知らされていないばかりか、解決のためにどのような信条・信念に基づき、どのような心構えで、どのような責任をとる覚悟で、どのような解決を目指すのか、全く示されていません。
4.本書の内容は、我々国民が全員知っておくべきことでもあります。民主主義国家においては、国民一人ひとりが主権者なのですから。
今回の事故に対しては、どのように対応したらよいのか。結論はどうあれ、選択の結果を知ること、予測することは、判断の際の必須の前提条件です。勿論、もっと難しい問題について正しく判断するためには、もっと専門的な知識が必要となりましょう。学者の間で論争が続いている問題もあるでしょう。
そのうえで、最終的には、主権者が、政治的にこれからの方向を示さなければなりません。自分が日本国の「大統領」となったつもりで。本書は、そのための必読書です。本書の「大統領」は、英語では、Presidentsと複数となっています。
5.本書には邦訳があります(二階堂行彦訳「今この世界を生きているあなたのためのサイエンス」楽工社)。同じ著者による、内容を拡大した別書もあります(Physics And Technology For Future Presidents 2010)。