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平成24(2012)年5月のコラム一覧へ戻る

裁判員裁判、暴排条例、英検

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.今日は、裁判員裁判と、暴力団排除条例、そして英語検定試験について、お話をします。この三つには、ある共通するテーマがあります。裁判員裁判と暴排条例は関係がなくはなさそうだが、それと英検がどう関係するんだ、とお考えの方もおいででしょう。最後に見事つながったならば、拍手ご喝采をお願いいたします。

2.まず裁判員裁判ですが、今年(平成24年)5月21日で、21年の導入から3年がたちました。裁判員法では、制度開始から3年で検討し改正すると定められています。

実際に裁判員を経験した方々の感想では、9割を超える方が、やってよかったとの感想をもったとのことです。私も、安心しました。

さて、その運用についてですが、無罪判決となった者が18人おりその中8人が覚せい剤密輸事件でした。これら裁判員裁判の無罪判決のうち2件が、当事務所の元代表の高野隆弁護士が扱った、というのは私が密かに誇りとするところです。

死刑判決の言い渡しを受けた者も14人いました。そのほか、性犯罪が厳罰化の傾向となったこと、現住建造物放火、強盗致傷などで執行猶予が増加したことなどが指摘されています。

私は、従前から、裁判員法の守秘義務については、異議を唱えてきましたが、やはり、その緩和について、議論がなされています。

裁判所、弁護士会のみならず、市民の側からも改革について提案があったことが、なにより、裁判員裁判の理想の実現とも考えられます。国民が、主体的に判断することが求められているからです。

裁判員裁判が、陪審裁判と最も異なる点は、陪審員は有罪無罪の判断だけをするのに対して、裁判員はそれだけではなく量刑まで判断しなければならない点です。量刑については、一般国民に対しては任が重過ぎるとして、これをはずそうという意見があります。私は、その意見には反対です。

そもそも裁判員に量刑まで判断させることになったのは、裁判官の優位を保とうとする最高裁判所の陰謀が背景にありました。私も、裁判官が誘導するのではないかと気になっていたのですが、今のところ、真偽は分かりません。いずれにしろ量刑という困難な課題に果敢に立ち向かい、議論を重ねて結論に至った多くの裁判員の方々がおり、大いに敬意を表したいと思います。

量刑に国民の考えを直接反映させるという人類史的にも貴重な経験を、今後、学者も交えて、検証し、今後の刑事司法のみならず、国民生活全般に役立ててもらいたいと願います。そのためには、裁判員の守秘義務の緩和が是非とも必要です。その方向で議論がすすめられることを期待します。

裁判員裁判が始まるまでは、量刑はもちろん、有罪無罪の判断まで職業裁判官に委ねていたこと、一般国民はそれに何の疑いも持っていなかったことを考えると、感慨無量です。これからも、裁判員の経験をきっかけに、国民が、専門家のやることだから、と手放して認めてしまい、自分で判断することを放棄してしまうことの危険性を、常に意識していかなければならないと思います。

3.次に、私は、埼玉弁護士会の民事介入暴力対策委員会の委員長を昨年(平成23年)から務めております。

一昨年(平成22年)に開催された、民事介入暴力埼玉大会では、事務局長をつとめ浩瀚な資料を作成しました。その資料をもとに、このたび、平成24年3月30日、本を出版しました。「仮処分を活用した反社会的勢力対応の実務と書式」(民事法研究会)が、それです。今回は、民暴委員会委員長として、関与しました。

この本では、暴力団排除条例について複数の箇所で触れられています。全国各地の暴力団排除条例は、暴力団を規制するだけではなく、県、県民、事業者にも責務を課しており、罰則として、公安委員会からの勧告、公表などもあります。

一般国民にまで責任を課しているのが、これまでの暴力団対策法などと大きく異なる点です。このことの意味は、なかなか国民には理解されていないのではないかと思います。従前、警察という専門家に頼っていた暴力団の排除に、我々が主体的に取り組むことが求められているのです。

暴力団は、あくまでも暴力という実力を重視する団体です。言葉による説得が通用する相手ではありません。国民は、裁判所や警察と手を携えて、暴力による解決方法が得にならないことを示していかなければなりません。

場合によっては、国民の意見が裁判所や警察と異なることもあるかもしれません。解決策をさぐるためには、多くの議論が必要かもしれません。我われは、協力しながら、暴力によって運命が変えられようとする人々を救済するために努力しなければならないのです。

4.さて、全くの私事ですが、英検準1級に合格しました。

英検準1級は、TOEICと違い、英作文と面接(スピーキング)があります。TOEICよりも幅広い能力が試されています。今は、英検1級を目指して勉強しています。

英語を勉強して良かったと思うことは、英語を話す人々の精神的な面まで考えさせられたことです。それは、当然、我われ日本人の精神面での長所、短所を考えさせられるということでもありました。 

英語というのは、とにかく対象を記述し尽くそうという気概に溢れた言語です。あるいは、英語を母国語とする人々には、そのような気迫があります。物について、複数、単数をはっきりさせること。過去のことなのか、現在のことなのか、今も続いていることなのかという時制の問題。主語を明示すること、などなど。状況に依存しないでコミュニケーションをするという必要性が育てた傾向だと考えられます。これに対して、我われ日本人は、大事なことは言葉にしないという正反対のコミュニケーションの方法を洗練し発達させてきました。

また、英語のネイティブにとっては、自分の意見を持つことが重要であり、それが当然の前提とされています。口にして言うことによって、議論がなされ、よりよい解決方法が探られるのです。そしてある主張をすると、その根拠をいやというほど並べ立てます。そして、その主張は、誰が言っているかではなく、根拠が妥当か否かによって、判断されます。どんなに立派な地位にある人の発言でも、根拠が示されず、または説得力がない場合には、その主張は採用されず、その人には無能のレッテルが貼られます。日本人の場合は、議論に先立って、最適な解決策がすでに決まっているかのようです。正論を主張すると、書生の議論などと揶揄される始末です。日本では、異なる意見が提出されることにより、よりよい解決に至るという希望がありません。会議は、異なった立場の人々が、その信念を披瀝するだけということになりがちです。自分の意見も、議論の行方によっては変わるかもしれない、いや、よりよい解決案が出来たならば、その意見を支持しようという心構えが必要だと思います。

我われ日本人が、これまで集団志向で成功を収めてきたことは事実です。しかし、それは集団として一致団結すること(conformity) にすぎなかったのではないでしょうか。キャッチアップの過程では、それが最も有効な方法であったかもしれません。しかし、今後、将来の展望を開くためには、個人がそれぞれ異なる音色を出しながら、全体として美しい響きを実現する和音のような調和(harmony)が真に必要なのだと考えます。

したがって、我われには、言語によらないコミュニケーションという高度な技を維持しつつ、改めて言語によるコミュニケーション、そして問題解決のための手法を開発するという困難な課題が与えられているのだと思います。我われは、好き嫌いで決めたり、世間の常識だからといって鵜呑みにすることをしない覚悟が必要です。専門家の意見だからといって、そのまま採用せずに、批判的に考えることが大事です。

5.どうでしょうか。本日、最初に掲げた3点の共通点が見えてきたでしょうか。

すでに20年にも及ぶ不況からの脱却の方向性が未だに見えません。昨年の東日本大震災による原発事故には、一年がたってもなお収拾の目処が立っていません。

これら重要な社会問題について、専門家など他人の意見を鵜呑みにするのではなく、自分で考え、自分の意見をもつことが大事なのだと思います。

独善におちいらず、人との議論を通じて、よりよい社会を目指すことが必要なのだと思います。

言葉の力を信じて。

言葉の力を借りて、我われ日本人は、人類史上に今再び輝くことを信じてやみません。

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