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平成28(2016)年3月のコラム一覧へ戻る

アジール・バンクの提案
   ―― 日弁連の死刑廃止論に反対する

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.日本弁護士連合会の死刑廃止検討委員会は、弁護士会の総意として死刑廃止を訴える声明を出すべく準備中です。日弁連は、かつて(昭和二九年四月)、死刑制度を存置すべき、との意見を法務大臣に提出しています。その後、日弁連が、死刑の執行を一時停止することを求めるなど、死刑廃止論に親和的な声明を出してきたことは周知の事実です。今、日弁連の立場が、実質的な議論が何らなされないまま変更されようとしています。現在の日弁連には、死刑問題について、中立的な立場から、その是非を検討する姿勢はありません。

日弁連及び各単位会は、弁護士の強制加入団体です。すなわち弁護士は、各単位弁護士会と日弁連とに加入していなければ弁護士としての活動ができないのです。だから、弁護士の仕事の好きな私は、このような声明に反対であっても、脱退することもできません。

2.死刑の意味とは何か。人間の社会の背後には、暴力があります。普段、どのように平穏な生活が営まれていようと、人々の無意識には、隣人の暴力に対する恐怖、怒りが隠されています。

「どんな悪疫でも怒り以上に高い値を人類に払わせてはいない。そこに見るものは虐殺や毒殺であり、被告たちの卑劣な攻撃であり、都市の破壊と全部族の滅亡であり、公開の競売で売られる頭目中の首領たちであり、家に投げ込まれた松明であり、また城壁内だけの火災ではなく、敵の放った炎に燃える広大な領域であろう」(セネカ「怒りについて」茂手木元蔵訳・岩波文庫)。

古来変わらず人類は衝突と協調を繰り返してきました。人類が現在あるのは、怒りだけではなく、これに対抗する力があったからです。

利己的に行動する個々人の集団において、秩序が形成されるのは、何故か。ホッブスが「リヴァイアサン」において考察したテーマです。彼は、「自然状態」を想定し、そこに「万人の万人に対する闘争」を見ました。その後、パースンズが採りあげ、「ホッブス問題」として改めて問題としてから、今なお論争が続けられています。

ジラールによれば、人類の歴史上、秩序を形成し、際限のない復讐から身を守る方法として、@供犠の儀式による暴力の転化、A決闘、仇討ち(血讐)による暴力の解消、B暴力から国民を保護する国家の法体系、があります(「暴力と聖なるもの」)。これらは、その時々の社会共同体の在り方や人々の意識に応じて重要な意味をあたえられていたのです。共通するのは、構成員の総意によって、「聖なるもの」を作り上げ、復讐を終結させることである。力の拮抗したもの者同士の間に、「超越的」なるものを作り出すことによって、暴力の伝播をくい止めることです。

3.供犠(くぎ)の時代。共同体の規模が小さく、科学的知識の未発達な時代には、何より、構成員相互の信頼が大事であった。人殺し、放火、強姦等は共同体の成員相互の信頼を失わせ、社会の存続を危うくさせるものとして禁じられる必要があった。

いったん、そのような事態がおきれば、それを引き起こした者は、罰せられたが、それは、社会の汚れを浄める呪術であった。現代のように犯罪者個人の責任を追求するという意識はなかった。過失によると否とを問わなかった。

人がある行為をしたとき、そうでない行為をする自由もあったのであるから、そのような行為をした結果生じた結果について責任をとらなければならない、というのが、近代的な個人責任の理論である。社会共同体の成員の全員が呪術を信じ、人々が呪術に従って、生きていた時代には、そのような個人の責任という意識はありえない。近代的な意味での自我もなかった。

生き埋め、火焙り、吊るし首等、現代人の目から見ると、残酷このうえない行為にも、汚れを除去し生命の再生を祈念するという神聖な意味があったのである。

残虐な呪術の一方には、アジールと呼ばれる「赦し」がありました。罪を犯した者でも、聖なる場所に逃れた者、聖なる物に触れた者は、罰せられませんでした。共同体は、その存続を賭けて、罪と「赦し」との葛藤を仕組んだのです。

4.血讐(フェーデ)の時代。共同体が発展し、富の蓄積が進み、封建領主が割拠する時代には、フェーデが行なわれるようになりました。

フェーデとは、特定の人間、特定の家、特定の王朝がそれぞれ特定の人間、家、王朝と争った私戦であり、個人によって引き起こされうる暴力行為であるが、当時は、決して不道徳的でも不法でもない、とされていました。

中世の政治・社会秩序は、復讐を前提として成り立つ、その構成員相互の抑制と均衡という性格を強くもつから、場合によっては自力で戦うことはむしろ法と秩序を守る行為であったのである(山内進「略奪の法観念史」東京大学出版会)。

「略奪・戦闘・人間狩り・狩猟、それらすべてが中世世界では、社会構造に応じて公然と認められた生活必需品の一部を占めていた。したがってそれらは権力者や強者にとって、人生の喜びに欠かせぬ要素であった」(エリアス「文明化の過程」吉田正勝訳・法政大学出版局)。

ところが、一方で、彼らは、篤い信仰心を持っていたことが知られています。しかし、この一見矛盾とも思える事態も、「万事が抑制され、調節され、計算されており、社会的タブーが以前に比してはるかに色濃く、自動制御的性格を帯びながら衝動処理そのものに組み込まれている現代のわれわれにとってのみ、当時の信仰のあからさまな強烈さと、攻撃欲ないし残忍さの激しさが矛盾と見えるにすぎない。」(エリアス・同前)。

自力救済が基本であるが、剥き出しの暴力の支配する社会ではなく、社会システムとしての秩序が存在した。ただ、人々の意識が、現在とは異なっていただけである。

フェーデは、無制約に行われたのではありません。この時代にも、教会など、フェーデに対抗し、これを制限する場としての、避難所たるアジールが存在しました。ここでも、共同体は、罪と贖罪のシステムを用意しているのです。

5.法体系による保護の時代。やがて中央集権国家が成立し、国法体系による保護が行き渡ると、安全の欲求は、もはやあたりまえのこととして、意識もされません。

現代では「ナイフの刃先を他人に向けてはならない」ということさえテーブルマナーとなり、人は、お互いに、その洗練の度合を競争するようになる(エリアス・同前)。人間関係における行為や感情の対価関係は、考えられる限りの細分化を実現する。

しかし、我々現代人も、ときとして抑えがたい暴力の衝動に襲われる。現代では、「殺人や破壊の喜びといった文明社会の日常生活から絞め出され、社会的に追放された衝動表出を、多くの群集の心の中に、いわばその暗黒部から再び目覚めさせ、それを正当化するためには、異常な社会不安と恐慌、とりわけ巧みに操作された宣伝活動を必要とするほどである」(エリアス・同前)。そこで、「今日では、通常両親によって代表される社会を通じて呼びさまされた嫌悪感や不安と、潜在化された欲望との間には、このようにして葛藤が織りなされている」(エリアス・同前)。

我々は、一方で秩序を望みながら、他方でこれを無みする衝動に襲われる。日々、これと悪戦苦闘しているのは私だけではないはずである。オウム真理教に対する一部知識人の分裂病的な評価も、かかる文脈において理解することもできると思う。

アジールは、この段階では、どうなったか。

ヘンスラーによれば、国家が中央主権化を完成し、生活の合理化、法の厳密化、倫理化、ヒューマニズムの浸透、学問の発展等がすすむと、アジールは、不必要になるだけでなく、法に敵対するものとなり、それは、中央集権国家によって刑事訴訟制度へと吸収され発展することになる(阿部謹也「歴史と叙述」人文書院)。

アジールの精神は、刑事訴訟法の被告人の無罪推定の原則、被告人の人権を守る厳格な手続き等々に生き続けているのです。

6.中央集権国家が成立し、国法体系による保護が行き渡ると、安全の欲求は、もはやあたりまえのこととして、意識もされません。国法体系の下においては、人を殺してはならない、という規範意識は、成文法の形をとります。

法の厳格さだけしか見ない者には、法が、単に、国民に対して敵対しているかのように見えます。しかし、法の意識の平面下には、供犠の、そして血讐の罰とアジールが隠されているのです。法の背後にある、人間の残虐と優しさとを見る洞察力のある者には、その裏側に隠されている、罪と贖罪との葛藤が見えます。首吊りの刑の起源が、樹木に実る果実を摸したものであり、死と再生の呪術・儀式であることを見てとったのは、かのシモーヌ・ヴェイユでした。

刑罰は、現在でもなお親が子を罰するのと同じように、加害者に向けてぶちまけられる被害についての怒りからして、なされたのである(ニーチェ「道徳の系譜」)。「怒り」に源をもつ刑罰は、その後、応報、正義の衣装を着せられ、次第に制限されていく。人間の社会生活を統べる等価交換の原理の力である。

「正義」の観念を、債権者と債務者との関係に看取したのは、ニーチェの慧眼であった(「道徳の系譜・第二論文」)。すなわち、正義は、あらゆるものに等価物があるとの信念に由来する。怒りは、すべての損害にはその等価物があり、加害者に苦痛を与えるという手段によってであれ、報復は可能である、との思想により制限された。損害と苦痛とは、等価関係に立つ。返済の義務は、身体に刻みこまれ、良心の疾しさを生んだ。それが正義の源となった。

個人が、誕生し、次第に道徳感情を身につけていく過程は、共同体における正義の生成を追体験することに他ならない。人間は、両親から受け継いだ肉体に、その共同体の言葉やしぐさ、習俗など、基本的価値観を刻み込まれた身体として出発し、やがて主体的に選びとった思想を身体に繋ぎ合わせ、重ね合わせていく。こうして一個の人間の身体と精神とが形成される。一個の人間において、精神と身体とは、分離不可能である。共同体と無関係の個人の自由意志などというものは考えられない。人類は、そして生まれてくる子供たちは、言葉を獲得したときから、言語を共通とする共同体の集合無意識の下に生きざるをえない。

7.しかるに、共同体の意識として、人を殺しても死刑にならない、との規範が存在するとしたら、それは、必ずや個人の規範意識に影響を及ぼすはずである。死刑廃止は、共同体の意識に、ある壊滅的な打撃を与えずにはいないはずである。

死刑の廃止は、必ずや社会のアノミーを増大させるであろう。

人を殺してはならない、という規範意識は、共通無意識となる。それは、国法体系の下、死刑によって強化されている。いま、その司法制度は、死刑廃止論によって、崩壊しようとしている。ニーチェの言う「正義の自己止揚」である(ニーチェ「道徳の系譜」)。

供犠や血讐を経て、脱呪術化(マックス・ウエーバー)して成立した国家の法体系による保護の確立は、それ以前の供犠や決闘等に比して、画期的な出来事でした。

それまで、AがBを殺したとき、それは、 A又はB、その家族、一族、その所属する共同体の処理に委ねられた。ところが、法体系の下では、 AがBを殺したとき、彼は、単にBを殺したというだけでなく、人を殺してはならない、との法の禁令を侵した、との理由で、罰を与えられることとなります。へーゲルが、「法哲学」において、犯罪が「法の否定」であり、刑罰は、「法の否定の否定」である、と主張したのは、このことです。

国家に、そして死刑に「聖なるもの」を認め、復讐の連鎖を断ち切ること。一人の人間の身体をもって、復讐の連鎖を断ち切ること。その意義は、現代においても、いくら強調しても強調しすぎることはありません。これによって、刑罰は、理性の合理的なコントロールの下におかれる可能性を得たからです。現在では自明のこととされている、罪刑法定主義や適正手続きの母体となったのである。罰を、犯罪者個人に留め、その家族や一族に及ぶことを禁じたこと、犯した犯罪以上の罰を受けないこと。これら、人間の社会関係を支配する等価交換の原理が貫徹する基礎を整えたのです。

国法体系による保護が行き渡ると、安全は、もはやあたりまえのこととして、法体系によって保護されていることなど、人々の意識にのぼることさえ、難しくなります。

そして法体系が、なにか自分に敵対するものであるかに見えてくる。しかし、法体系を、フィクションとして退けるのではなく、歴史を通して、その背後にある人間の「ふくよかな関係」を看透すこと、これが現代に生きる我々に与えられた課題です。

8.死刑廃止論者の主張は、なべて、次のようです。

いわく、人道主義(人権、個人の尊厳)の見地から理性的に考えれば、残虐な刑罰である死刑は許されない。民主主義国家において、国家が、一方で殺人を禁じておきながら、他方で自らの手でそれを行うことは矛盾である。死刑の犯罪抑止力は、「科学的」に証明されていない。冤罪の場合には、取り返しがつかない……。

その凡庸なことには目眩がします。

彼らの言説には、ある決定的なことが欠落しています。それは、いったん、それに気がついた者全てを呪縛する恐怖。私の「理性」さえ、何か「語り得ぬもの」(ウィットゲンシュタイン)によって支配されているのではないか、という恐怖です。

死刑廃止論者が、理性やヒューマニズムを根拠として廃止論を展開するとき、そこには、「理性」そのもの、「ヒューマニズム」そのものに対する懐疑の精神がない。

啓蒙主義を経て、「理性」を得たはずの人類が、なぜ、二度も世界大戦を引き起こしたのか。なぜ、ファシズムを経験しなければならなかったのか。また、共産主義の崩壊は、それが、理性によって計算された社会(計画経済)を通じてのユートピアの実現という人類の崇高な理想を掲げて登場してきたという出自をもつだけに、「理性」について、改めて考えさせずにはいないはずです。

デカルトに始まる「理性」や近代的自我について、見直す必要があります。今、ヨーロッパに起源を有する「自我」、「理性」、「人権」や「自由」の見直しが、各学問分野で行われています。学際的な協力が新たな哲学を産み出しつつあるように思えます。我々は、かつて学問そのものであった哲学が、細分化され専門化され、お互いの交流が失われた時代を経て、今再び、総体的な知の在り方としての哲学の再生の場に居合わせているのです。

確かに、今もなお、「権利」「自由」を根拠として、人々の義務や、社会制度についての議論を展開する者もいます。しかし私には、そのように権利を基底に置き、正義や自由を説く論者(仮にここでは「権利論者」と呼ぶことにします。)は、その実、他の基準を「密輸入」して、議論を組み立てているのではないか、との疑念を払拭することができないのです。現代における代表的な権利論者であるロールズ、ドウオーキン、ノージックの導きだす結論がまちまちであることが、その何よりの証左のように思えます。

死刑廃止論者は、被告人の人権や、理性、民主主義を根拠として、死刑廃止を主張しますが、その実、彼らをして語らせているものは、死刑に対する嫌悪感にすぎないのではないでしょうか。

時代の影響を受けない個人の自由意志などというものはありません。理性さえも、人類の精神史の大きな織布の一糸で過ぎません。ニーチェは言います。冒険心、勇猛心、復讐欲、狡猾心、略奪欲、支配欲という衝動は、社会共同体の確立前においては、その社会全体に対する敵に対抗する徳として必要とされるが故に尊重されたものの、その確立後は、却って不道徳なものと烙印をおされ、代わりに「畜群的道徳」が広まる。「社会の歴史には病的な軟弱化や柔弱化がおこる時期があり、その際には社会それ自体がみずからに危害を加えるところの犯罪者の味方をする。しかも本気で、まっこう正直に味方をする。刑罰ということが社会にとって何かしら不当なことのようにおもわれてくる、−−『刑罰を科する』とか『処罰せねばならぬ』とかいった考えが、社会にとっては疑いもなく悲しむべきもの怖しいものにおもわれてくる。『彼を危険のないものにするだけで充分ではないか?刑罰に処するというのは怖ろしいことではないか!』…」(ニーチェ「善悪の彼岸」信太正三訳・ちくま学芸文庫)。

死刑廃止論者は、犯罪者を、自由な個人としてではなく、社会意識の繰り人形、有害な動物と同一視することになるのではないか。「畜群的道徳」によって。

死刑廃止を主張する者は、少なくとも、現代の刑法理論の通説となっている個人の自由意志を基礎とした個人の責任理論と、死刑廃止論との関係を明らかにする責務がある。

死刑廃止論者に、へーゲルの狡猾、ニーチェの慧眼、そしてシモーヌ・ヴェイユの感受性を期待することは土台無理なのでしょうか。

法曹や学者は、被告人の人権だけを考えていればいいのではない。国民の大部分が死刑を支持しているという現実のもつ意味を真摯に考えなければなりません。被告人の「人権」というだけでは、国民を説得できないことは、明らかです。

「人権」を法曹や学者の仲間内の単なる符牒、ジャーゴンとしてはなりません。法学者は、他の学問分野からの挑戦に堪えられるだけの内実を示さなければなりません。

国民の大多数は、「殺人」にも「死刑」にも、現実感がなく、死刑問題について深く考える機会が与えられてはいないはずです。それにもかかわらず、死刑の存在意義を感じ取っている。これを集合無意識と呼ぶかどうかは別にして、この事実の持つ意味を無視することはできません。

数だけでいえば、死刑で死ぬ人の数は、例えば、交通事故で死ぬ人の数に比べたら圧倒的に少ない。問題とされる冤罪で殺される人の数はもっと少ない。したがって、問題は、それによって象徴されるところの意味です。

殺人者に対する「怒り」の気持ちを、どうおさめたらよいのか。国民を、啓蒙の対象とみるだけでよいのか。国民は、生命を大事にする気持ちがまだまだ足りないから、それを教えてあげなければならないというのか。

啓蒙主義時代の思想家ベッカリーアやベンサムは、死刑廃止を主張しましたが、その背後には、民衆に対する過酷な死刑という現実がありました。ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、パンを一個盗んだ子供が死刑にされていたのです。時代背景が現代の日本とは全く異なるのであって、ベッカリーアやベンサムが死刑廃止論を説いた、といってこれをそのまま援用することはできません。

9.死刑廃止論者は、死刑囚を「弁護」することで、彼を管理社会に対する異議申立者の地位に祭り上げ、権力を批判したと、自己満足していないか。国家権力がすることは、何でも悪い、と思いこんでいないか。

かつて、絶対王権制のもとでは、国王は、自己の地位を保全するだけのために、自己に敵対する者に対し、八つ裂き、火焙り、串刺など残虐な刑罰を科していました。それは、公開され、「お祭り騒ぎ」となりました。国王の権威を見せつける儀式であったのです。

当時の死刑廃止論は、死刑の乱用に対してこれを阻止し、人民の生命を守るための命懸けの抗議でした。

現代の日本では、国家権力に反抗したというだけの理由で死刑になる者はいません。個人を殺したからこそ死刑になるのです。現在でもなお、国家権力による「犯罪」は、おおきな脅威です。しかし現代における権力の実態を見据えれば、国家権力だけを相手にしていたのでは片手落ちであること、が見えてくるはずである。さらに相手としなければならない「敵」は、まだ別にいます。

現代においては、権力は、すでに、個人であれ、国家であれ、何か主体に存するものではありません。産業社会における構造的な仕組み(行政組織、警察、裁判所、政党、学校、監獄、マスコミ、企業、消費者団体等)に、権力は張りめぐらされています。個人は、権力を担うと同時にそれに服する関係に置かれ、相互に監視されています(フーコー)。個人は、産業社会に適した自己規律を強いられています。今日、権力は、個個人の営みによって、日々、新たに創成され、新たに改正されているのです。我々が向き合わなければならないのは、単なる国家ではなく、そのような権力の在り方なのです。

個人の負うリスクは、暗闇で強盗に出会うという伝統的なものだけではありません。エイズ、「民族浄化」、異常気象、核戦争など、原因において自然と人為的なものとの境界が失われ、グローバル化した現在、範囲において全人類に及ぶという状況があります。

また、分業の徹底により個人は、医師、法曹、科学者などの専門家集団に、生活のかなりの部分についての「判断」を委ね、その結果、現実感を喪失し、とりあえずの「暫定的判断」で生きることを余儀なくされている。

裁判官、検察官そして弁護士、即ち法曹こそが、「殺人」や「裁判」、「死刑」に最も近い位置にいる。法曹が、死刑について、どう考えるかは、決定的に重要である。法曹や学者が、死刑をどう考えるかは、国民生活に直ちに影響します。

我々は、国家を悪と決めつけていればヒーローでいられる時代をとうにすぎました。我々は、「悪」をどこに見出すか、そのセンスが問われる時代に生きているのです。知識人は、まず自分自身の権力に気付かなければなりません。

知識人に求められるのは、「死刑囚」が可哀想という「心情倫理」ではなく、死刑制度の存廃の結果をも配慮した「責任倫理」(マックス・ウエーバー「職業としての政治」)でなければなりません。「善をなそうと欲して悪を実現してしまうあの力」に気付かなければなりません。

共同体の輪郭が失われ、国家の構成員としての意識も稀薄化した現代において、人は、自己のアイデンティティーをどこに求めてよいか迷っています。オウム真理教事件は、教徒らが、真摯に自己のアイデンティティーを模索した挙句、教団にそれを見い出し、国家と敵対した、そこに悲劇があります。

10.自由な意志をもった平等な個人が市民社会を形成し、国家権力が主体となって、国民を支配する、というのは「近代的」なナイーブな考え方です。

しかし、近代の特徴である、計算可能性と予測可能性とがすべての基準となる生産優位の産業社会の仕組みは、なおも維持され、さらに資本の増殖の基礎である「差異」を求めて、加速度的に徹底、強化され、グローバルなものに発展している。その中で、我々はどう生きるべきか。

前述のように権力は、すでに、個人であれ、国家であれ、何か主体に存するものではなく、産業社会における構造的な仕組みに張りめぐらされており、個人は、産業社会に適した自己規律を強いられている。個人の負うリスクは、原因において自然と人為的なものとの境界が失われ、範囲において全人類に及ぶという状況がある。分業の徹底により個人は、専門家集団に、生活のかなりの部分についての「判断」を委ね、その結果、現実感を喪失し、とりあえずの「暫定的判断」で生きることを余儀なくされている。

このような、時代において、自我とは、神や君主に従属することでないのはもちろん、自律による理性的な主体でもありえない。自己の精神及び身体を基点とし、それとそれを取り巻くグローバルな環境とが相互に影響を与えることを認めつつ、過去を参照し、未来を先取りしながら、リスクを判断して、常に自己を「反省」し、更新していく積極的な意志決定でなければなりません。精神は、反対意見に対して、「開かれて」いなければなりません。そして周囲の環境の影響を受けるだけではなく、これを変えていかなければなりません。我々は、自分を何者であるか、と問うべきではない。何者であろうとするのか、と不断に問い続けなければならないのです。

ポストモダンに生きる我々には、全ての問題点について頼れる唯一の規準などというものはありません。我々は、「真理」なき社会に生きています。「科学」でさえ、真理ではありません。いかに多様な価値観を、対立・衝突なく併存させることができるかが、ポストモダンに生きる者に与えられた課題です。

現代に生きる、ということは、理性的で自由かつ平等な主体などというものが虚構であること、個人は、言葉、習俗、歴史などの人類の精神史の一齣に過ぎないことを承知しながら、しかし、なお、個人として主体的に生き抜くことの、その意味、限界を探りつつ、責任を負って生き続けることです。

死刑廃止論者は、その立論の根拠を、理性、人権、人道主義、民主主義や個人主義に求めながら、その実、個人の責任を否定することにより、それらの基盤を切り崩しているのではないか。その逆説に、彼らは、気付いていません。私が、死刑廃止論に反対する、一番の理由です。へーゲルの、犯罪者を、刑罰をもって遇するのが、彼を理性的存在として尊重する所以である、との言葉を噛みしめたい。

死刑は、なくならなければならない。しかし、死刑制度の廃止ではなく、死刑に相当する犯罪のなくなることの結果として。我々は、エリアスとともに、個人個人が、役割を分担し、欲望に従って自由になすことが、お互いを傷つけることなく、そのまま社会活動を織り成すような、そのような社会を実現するまでは、まだ「文明化の過程」にあると、言わなければなりません。

犯罪をなくすために努力すること、冤罪を防ぐために頑張ること、これらのことは、死刑廃止論を声高に主張することに比べて、地味である。実現不可能にも見えます。しかし、一匹の蝶の羽ばたきによる空気の振動が、回りまわって、地球のどこかに大風を巻き起こす可能性もあるという(「バタフライ効果」)。仕事に疲れたとき、しばし蝶になってヒラヒラ舞ってみるのも、悪くはないでしょう。法曹は、理想論に飛び付くのではなく、「厚い板をくり貫くように」、現実の仕事に取り組み、「男らしく堪え」なければなりません(マックス・ウェーバー「職業としての政治」)。

死刑存置論は、既にある死刑制度を認めるという意味では、「現状肯定主義」です。しかし、私は、これに対抗する廃止論者が、大衆の中から「既存の権威」に対する「反抗の契機」を見い出し、説得的に突き付けてくれることを、心密かに願っている者でもあります。私の精神は、そのような意味において、死刑廃止論に対して「開かれて」います。

死刑廃止論者と存置論者が感情的に対立したままという状況を放置しておくのでは、知識人は、その責任を果たしていません。

11.死刑廃止論者に対して、私は、死刑廃止の登録システムを提案したい。すなわち、死刑に反対の者は、殺人の被害者となったときは、その犯人を死刑にしないで欲しい旨を登録するのです。これを、骨髄バンクに倣って、アジール・バンクと名付けたい。アジールとは、先にみたように、かつて、罪を犯した者が、そこに逃げ込めば、罰せられることがなかった、そのような場所、仕組み、伝統です。

実際に、彼が殺人の被害者となったとき、現行法上は、被害者感情として、情状のひとつとして斟酌されるに過ぎませんが、いずれは刑の必要的減軽事由として法制化することも検討されてよいでしょう。ただ、未成年者の登録は認めるべきではないでしょう。成人してから、自分の意志で選択させるべきです。

一方では、死刑制度の存続を望む者がおり、他方で死刑廃止を願う者がいるわけであるから、手詰まりを打開する制度的方法として、積極的に採用するに値すると考えます。いかがでしょう。

自己の死を賭した主張だけが、本物です。私は、全ての死刑廃止論者が、登録してくれるものと確信しています。

全ての人がこれに登録するような時代になれば、自ずと死刑廃止は実現されよう。

死刑廃止論は、論者の意図はいざ知らず、現代に新たなアジールを、それとして再現する試みとして位置付けることができます。

かつてアジールは、国法体系による国民の保護と刑事訴訟制度による被告人の保護というシステムの母体となりました。アジール・バンクは、現代のアジールとして再登場し、世間の絶大な共感を得ることでしょう。

ヘンスラーによる展望は、極めて示唆に富むように思われます。「人間が共に生きてゆく秩序を文化的な目標設定の秩序としてみると、アジール法の制度の最終的状況は罪と贖罪の問題、生と死の問題を宇宙的秩序ならびにそれを支配している諸力と調和させて解こうとする試みである。このような思考の全体のなかに特定の目的のための物の見方がますます入り込んでくる。神聖な中心点のまわりに形成されていた祭祀共同体は国家目的団体となり、それはおのれの目的を達成するために合理的な手段を発展させてゆく。こうしてアジール法は国家が確立してゆく特定の段階でその存在の意義と価値を失ってしまう。しかしながらアジールのなかに表現されている崇高な宗教的思考はいささかも損なわれることなく生きている。苦悩と迷いがあれば、他方で保護と援助があるというアジール法を支えていた柱は人類の太古の昔から現在にいたるまで変わることなくつづき、その永遠の両義性こそすべての宗教的理念の場となっている」(阿部謹也「歴史と叙述」人文書院所収)。

死刑廃止論者が、どのように凶悪な犯罪があっても、犯人ともども、人格的な完成をめざすのが死刑廃止論の目的であると、真剣に考えているのであれば。あるいは、国家などという枠に捕われない新しい思想の息吹なのだと考えているのであれば。新たな宗教であれ、なんであれ、私は、死刑廃止論者の理想が実現されることを祈りたい。ただし、団藤のように、自分の職責を忘れ、被害者や遺族の痛みを置き去りにした議論では、それは無理でしょう。

真の死刑廃止論は、犯罪者の、したがって人間の哀しみと、被害者や遺族に刺さったとげの痛みを、ともに真に理解したうえで成り立つような、そのようなものとして、あるでありましょう。

12.日弁連には、死刑制度の根源に遡った議論を十分尽くすまでは、死刑廃止論を前提とした声明、提言その他一切の意見表明は、それこそ一時停止にしてもらいたい。

憲法9条をめぐる議論においても、同様のことが言えそうな気がします。

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