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平成28(2016)年9月のコラム一覧へ戻る

勾留請求却下率上昇の理由

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.世間は、高畑裕太の事件で騒がしいようですが、刑事司法に関しては、近時、裁判所における勾留請求を却下する割合が上昇していることが、話題となっています。

勾留請求とは、検察官が、被疑者(新聞等では容疑者と書かれますが、法律用語では被疑者です。)の取り調べのため、同人を、代用監獄等に留め置くことを、裁判所に請求する手続きです。安易な勾留は、自白強要の温床となり、冤罪の原因ともなることから、裁判官が、厳格にこれを審査のうえ、その可否を判断するべきです。

戦後の刑事司法の改正後すぐくらいは、請求を却下する件数も相当数あり、学生運動華やかなり昭和44年ピークに達し、その後落ち込み、ずっと却下率は1パーセント以下と、低いままでした。これは、すなわち、検察官の判断が、そのままスルーされていたということです。ところが、平成15年から却下率が上昇し始め、平成20年には1パーセントを突破し、近年に至っては、急上昇する勢いです。特に、さいたま地裁が、突出して高い。

上昇の理由については、諸説あります。いわく裁判員裁判の影響である。それに伴う、刑事手続きの改正により、証拠を吟味するようになったからである。裁判官の活動や勉強会、研究会の影響である。はては、周防正行監督の冤罪を扱った映画「それでもボクはやっていない」(平成19年、2007年)のせいである。

私は、これに関して、極少数説(一人説?)を主張したい。すなわち、私の刑事弁護活動の結果である、と。

2.私は、今でこそ、刑事事件や少年事件を扱うことは少なくなりましたが、昭和63年に弁護士になってから、ずっと、刑事事件に熱心に取り組んでおりました。私の刑事事件の師匠、いえ弁護士としてのメンターたる高野隆先生の影響にほかなりません。

しかし、私自身の内面からほとばしる活動でもありました。

あるとき、ふと、勾留理由開示請求を、自分が扱う事件だけでも、全件、これをやってみようと決意しました。勾留理由開示請求とは、検察官の勾留請求について、裁判官がこれを認めた場合、裁判官に対して、その理由の開示を求める手続きです。当時、その手続きは、形骸化しており、実行する弁護士も少なく、本などでも、あまり、その効用が説かれることが少ない、そんな時代です。

私が、全件勾留理由開示請求の活動をすると決意するに際し、頭をよぎったのは、ミランダの会の活動です。ミランダの会とは、黙秘権の行使を積極的に推進し、被疑者取り調べの際、弁護人の同席を求める、という活動です。日本の刑事司法に与えた影響は大です。ミランダの会の活動は、弁護士になりたての人が、刑事訴訟法を学ぶと、自然に思いつく方法かなと思います。いわばコロンブスの卵みたいな話です。それを、静岡県の某弁護士が、一人で、実践し始めました。その影響で、ミランダの会ができ、高野隆先生が、ながらく代表をつとめておりました。ミランダの会は、数々の成果をあげたあと、解散しました。

私は、その静岡の先生を見習って、さいたま地裁を中心に、勾留理由開示請求を、一人でやりはじめたのです。手許には、20数件ほど、記録が残っています。

それは、やがて埼玉弁護士会の知るところとなり、私は、当時刑事弁護委員会の委員長でいらした新穂正俊先生の依頼をうけて、平成19年12月13日、若手の弁護士たちに、私の活動を発表しました。日ごろ、へらへらしている私のイメージしかない会員は、私の激しい法廷活動に、ショック(?)を受けたようでした。それは、やがて、埼玉弁護士会で、全件勾留理由開示請求、全件勾留取消請求の活動へとつながっていくのでした。

私にとって理論的支柱となったのは、当時の大阪地方裁判所堺支部の浅見宣義判事補が、平成6年に雑誌に発表した「礼状審査の活性化と公開化のために」という論文でした。

3.前述のように、勾留理由開示の手続きでは、私は、被疑者のために、普段の私とは全く違う人間になりきって、徹底的に、勾留を許可した裁判官を糾弾しました。

その後、激しく対立した裁判官と、別の事件で出会ったりすると、ばつの悪い思いをすることもありました。

4.弁護人の接見交通権や、過払い請求のように、先輩の弁護士たちが切り開き、その後、それに続く弁護士が、その恩恵を受ける、というよき伝統が、弁護士の世界にはあります。

勾留請求却下率の上昇という成果は、実は、刑事司法を変えなければならないという熱い思いを持つ人が、あそこに、そこにとおり、それが影響し合い、感応しあって、大きなうねりとなって実ったものと思います。私の活動は、本当に取るに足らない芥子粒のようなものですが、なにかしらは意義があったのかなと、ひとり密かに誇りを胸に収めておりました。

しかし、これも歴史の一齣には違いがないと思いなおし、私が惚ける前に、死ぬ前に、書き記しておく。

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