2006.08.30
「オレステイアの終わり-弁護士10年目を迎えて」 (初出:「埼玉弁護士会会報」1997年7月号)
法学部に進んだものの、法律及び法律学には全く興味が持てなかった。大学入学と同時に司法試験の勉強を始める級友達を横目に、経済学、生物学、数学などの本を読み漁った。より普遍的なもの、より抽象的なものに憧れていた。高校ではアルゴリズムとして習っただけの微分積分を、ε-δ論法から勉強し直した。
しかし、追い求める抽象と、個別の具象にすぎない私との乖離が私を悩ませた。いろいろ考え、卒業後も司法試験を受けることにした。法律の本を読む時間が増え、法律以外の本を読む時間がほとんどなくなったころ、ようやく合格した。楽しい司法修習は、あっという間に過ぎ、埼玉弁護士会に登録した。
弁護士になりたてのころは気負っていた。事件処理に追われていた。知らないうちに胃潰瘍になっていた。「矢印」が幾本も、私の身体に突き刺さっていた。「矢印」は、法律関係を図解するときの「権利関係」を示す記号と思う。依頼者が、その権利を実現し、その人権を擁護されるのは、直接には、私の身体を通してである。私は、依頼者の委任を受けて、あるいは訴えを提起し、あるいは弁護活動をする。依頼者にとっては、私が、日本の司法制度である。
最近は、意識して、法律以外の本を読む時間を持つようにしている。かつては威信に輝いた数理経済学の凋落ぶりや、社会生物学に対する厳しい批判などに接すると、学問の世界にも栄枯盛衰があるのだな、と感慨に堪えない。
法は、その体系の内にあっては、自らの正統性を立証できない。国民の生活、行政組織、政治、経済、文化、歴史などなど、法を取り囲む事象によって、法は息を吹き込まれる。逆に法の指導理念が正当か否かは、それらによって日々テストされる。
弁護士は、法の理念と、現実の生活の攻めぎあう現場に身を晒して苦悩する。
あいかわらず、事件処理に追われているが、その過程で、一瞬、永遠なるもの、「美しいもの」を垣間見た、と感じることがある。法の理念と現実の世界との関係を考えることができるようになったことが、10年近く弁護士をしてきたことの成果であろうか。
陳腐なようであるが、依頼者から感謝されることが、弁護士としての最大の報酬である。今、私のような者でも、こうして仕事をして生きていけるということが、不思議なほど、ありがたいと思っている。いずれ、私の経験と「美しいもの」との関係について、本を書けたら、と念じている。
アイスキュロスのギリシャ悲劇「オレステイア」に描かれるのは、父を謀殺した母を殺したオレステスの救済の物語である。オレステスは、アテネ市民の陪審に裁かれ、無罪を言い渡される。オレステスを追いつめた復讐の女神達は、慈みの女神達にと、その姿を変える。復讐の連鎖を断ち切るためには、正当な司法制度が必要であったのである。
オレステスを弁護するアポロンの弁論は、現代人には理解が難しい。司法制度が確立しても、人間の欲望、業はなくならない。いかなる制度を持ち、運営していくかは、その時々の人間に委ねられている。
オレステイア、すなわちオレステスの物語は終わったが、それは、我々の物語の始まりにすぎない。