2019.05.10
ケント・ギルバート著「外国人弁護士だから見抜けた日弁連の正体」(2018年11月1日)を読む
1.私は、1988(昭和63)年4月に埼玉弁護士会に登録し、以来、弁護士をしている。若いころは、カルロス・ゴーンの弁護人で有名な高野隆先生の指導のもと、日本の刑事弁護を改革しようと、刑事弁護を多数手がけた。現在は、一般民事を主に扱っている。
2.昔から、埼玉弁護士会や日本弁護士連合会には、ある種の違和感を、感じていた。死刑や憲法9条に関して、一般会員の意見をよく聞かないで、勝手に声明文を発表したりするのだ。これには、怒りを覚えることもある。
強制加入団体である弁護士会が、各弁護士の思想信条の自由を侵害していることが、問題だ。この問題は、それぞれ死刑制度の要否、憲法9条改正の要否そのものの問題と、弁護士会が会員の意向を無視して表明をすることの是非の問題の二つに分けられると思う。前者は、それこそ思想信条の自由、表現の自由ということになる。後者こそ、まず突破しなければならない関門だと考える。もちろん、両者は密接に関連する。前者は、弁護士個人個人の修養が必要だ。
3.私は、昔から、(死刑存置論ではなく)「死刑制度存置論」というものを唱えており、自由と正義編集部に投稿したところが、1995年1月号に掲載された。CiNiiにも登録されている。いかにも若書きで、恥ずかしいが、今も、基本的には姿勢は変わらない。現在、その後勉強した進化生物学を基調とした論文を構想中である。
これに対して、憲法9条に関しては、公に公表することは控えてきた。死刑は、弁護士として関わりがあるが、憲法9条は、弁護士というより国民としての問題だと考えてきたからだ。田中美知太郎、福田恒存、高坂正堯といった方々の本を読んで、考えを固めてきた。今だと中西輝政教授か。
私は、死刑の問題と憲法9条の問題は、共通するものがあると考えている。共同体の維持と「敵」の排除、という点で、同じ構造をしているからである。
4.私は、法律学というものにも、昔からなじめないものを感じてきた。百人百説と言われる政治学ほどではないにせよ、根拠があいまいだからだ。サイエンスほどの精密さは、求めるべくもない。数学を使った思考をするという点では、社会科学のなかでは、経済が、今のところトップを走っている。しかし、法律学にこそ、普遍的な学として、社会科学の王様として、君臨して欲しいと願っている。その際、数学的な思考や、人類学、社会学、歴史学は勿論、生物学、進化学などの知識は必須と考える。今読んでいて参考になると感じるのは、佐藤俊樹の「社会科学と因果分析」(岩波書店)で、社会科学は自然科学の後追いをしてきたという従来の常識を覆す、とてもエキサイティングな本だ。
前述のように、私は、憲法9条に関しては、沈黙を守ってきたが、最近、その禁を破った。弁護士会が死刑や憲法9条に関して表明することを弾劾する立場を明確にして、埼玉弁護士会の常議員に立候補したのだ。結果は、一票差で、落選したが、問題提起にはなったと信じている。
5.私が、今、発言しなければと考えるようになったのは、お隣の韓国をみていてだ。韓国にも、北朝鮮に歩み寄り、反日活動ばかりしていないで、まずは自由社会の一員として、自分に与えられた課題をなしとげようと考える人はいるはずだ。しかし、そのような人々は、もはや、そのようなことを表現することもできないほど、抑圧されているのだろうか。表に出てこない。日本も、そのようになってからでは遅い、そう思うようになったのた。
日本の学者は当てにならない。とくに憲法学者は、学者というよりも活動家だ。革命に大義があると考えられた昔ならいざ知らず、今、昔ながらの共産主義を主張することに、どのような意義があるのだろうか。
現代の日本にとって、死刑よりも、憲法9条のほうが大事だ。冷戦時代は、東西の親分がどう行動するかで、我々の運命は決まっていたのだ。我々が、どのような憲法を持ち、どのような軍備を備えようが、大勢に影響がない厳しい状況が続いた。しかし、冷戦後は、初めて日本が主体的に活動できる、またそうせざるを得ない状況が現出した。中国の覇権主義にどう立ち向かうかは、21世紀の世界の最も重要な課題だ。日本国の活動に日本の興廃が掛かっている。いや世界の未来が託されている。我々法曹は、まずは、弁護士会に、憲法護持を基調とした意見表明をさせないことが必要だ。平和主義の理想は尊いものであるが、日本が滅んでしまっては本も子もない。日本が元気で、法の支配を世界にいきわたらせることこそ、我々法曹の責務である。そうでなければ、私が薫陶を受けた、先に名前を挙げた学者の方々にも申し訳ないと思うのだ。
6.ケント・ギルバートの本「外国人弁護士だから見抜けた日弁連の正体」を読んで、意を強くした。