2016.06.27
スティーブン・ピンカー「暴力の人類史」(Steven Pinker The Better Angels of Our Nature 2011)を読む
1.進化心理学の泰斗スティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」(Steven Pinker The Better Angels of Our Nature 2011)をどう評したらよいのでしょう。
本書は、ピンカーが、畑違いの「暴力」の問題に挑んだ新著です。
氏の「言語を生み出す本能」、「人間の本能を考える:心は「空白の石版」か」、「心の仕組み:人間関係にどう関わるか」、「思考する言語:「言葉の意味」から人間性に迫る」(いずれも邦訳の書名)を読んで感動した方は、手にする価値があります。前著のいずれにも劣らず、博覧強記のピンカー先生による、面白エピソード満載の分厚い新著です。前著のどれでも、楽しんだ人は、また楽しめます。
しかし、本書を読んで感動できるかどうかは、あなた次第なのです。
人間の歴史は、暴力が減少する歴史である、現在は、もっとも暴力が少ない時代である、という主張を初めて目にする人には、びっくりでしょうが、それ以外に、今回の本では、これといって常識を覆す新たな発見、というものはない。
日本の読者だと、河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」(2004年)を読んで、少年事件に関して、少年非行が減っているという事実を突きつけられて、蒙を解かれた人も少なくないのではないでしょうか。
そうです。現代は、世界的に、暴力による死が減っているのです。全人類が一度に滅亡する可能性があることの裏返しの真理でしょうか。
2.本書では、ピンカー先生が、文系の人ではないことの弊害が、露呈しています。
マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン「人が人を殺すとき」や、ノルベルト・エリアス「文明化の過程」に言及しているのはいい。いずれも、「暴力」の問題を考えるときの必須の本です。本書でも、的確に位置づけられています。
しかし、ニーチェや、ルネ・ジラールがでてきません。
著者は、自身も認めるように、統一的な理論をつくることを放棄しています。原因と思えることをただ並べ立てているだけです。
数学もでてきません。
ニーチェを読んでいれば、いつの時代であっても人間関係に貫徹する等価関係、を見出すはずです。
その応用問題として、マーゴらは、前掲書で、力の均衡が失われるとき、虐殺が発生することを明らかにしたのです。ジラールは、供儀の時代、封建時代、国家による保護の時代と、どの時代にも、暴力を減少させる人々の営みを描いたのです。エリアスの本は、そのうちの一部を詳細に記述したものです。
3.暴力についての深い洞察力に欠ける故でしょうか、死刑制度についても、現代では死刑は犯罪抑止の役目を終えていると、さらっと触れられているだけです。
理系の人特有の楽観論が頭を出して、他人を戸惑わせます。人間の制度も何も、自然にそうなっていると思い込んでいるのでしょう。人間は、条件次第で、いくらでも退行する可能性を持つことへのおそれがない。
そのおそれに気が付けば、祈りの重要性にも思いがいたるはずです。現行制度を維持するだけでも大変な事業であることが、したがって、個人の英雄的な活躍の重要性が分かるはずです。
それらがない。
したがって個人の活躍も描かれていません。
趨勢として、人間の本能や学習の帰結として、暴力が減少してきたとしても、その時代、その場所には、個人の活躍や苦悩があったはずです。その点については、記述がありません。
小説家の仕事と割り切っているのでしょうか。
4.いろいろ文句を言いましたが、お母さんの精神安定剤にはなるでしょう。
前著では、人には生まれつき、というのがあるのだ、と力強く言ってくれたので、私の育て方がわるいのかしらと、子育てに悩んでいるお母さん方の、安心材料ともなっていました。
今回の新著でも、その効用は期待できそうです。