2021.06.01

大塚 嘉一

刑事弁護士高野隆は何が偉いのか、どれほど偉いのか

1.刑事弁護士高野隆といえば、ニッサンの元社長カルロス・ゴーン氏の弁護人を務め、2019年3月6日、氏ともども変装した姿が、国民的話題になったことが記憶に新しい。

一般の方々の目には、どのように映ったのであろうか。

変装の仰々しさから、多羅尾伴内を思い起こした人もいるかもしれない。最後の決めセリフ「ある時は片目の運転手、またある時は私立探偵多羅尾伴内、しかしてその実体は、正義と真実の使徒、藤村大造だ。」が有名である。どうでもいいことだが、私は小さいころ、「正義と真実の使徒」を「正義と真実の人」の東京弁だと思っていた。

2.普通の人は、あれを見て、刑事弁護で有名らしいけど、専門バカの変な人、くらいに思ったのではないか。あるいは、ふざけていると、腹を立てたか。

違うのである。まず、ふざけてはいない。真剣なのである。専門バカのきらいはあるが、バカではない。むしろ豊かな知性と教養を持て余している趣さえある。そして、その影響力は、刑事弁護の分野に留まらず、現代に生きる全ての日本人に及んでいる。現代日本の刑事弁護の第一人者というだけではない、日本の政治経済社会そして文化に対して重要な役割を担っているのである。

3.ウエルマンという人の「反対尋問」という本がある。原著は、Francis L. Wellman The Art of Cross-Examination 1903である。反対尋問についての古典だ。以前に旺文社文庫で翻訳本が出ていたが、長らく絶版となっていた。それが、2019年に、ちくま学芸文庫の一冊として出版され、現在、入手可能となっている。

翻訳本には、著名な刑事学者平野竜一の解説が載っている。彼は、反対尋問の技術と精神は、ひとり刑事弁護の問題であるのではなく、情報化社会の一般人にも必須の心得だと訴える。曰く、「反対尋問の精神は、誠実とみえる報道も権威があるかのような意見も、多かれ少なかれ偏見を伴ったものなのであり、また利害がからむと、この人がと思うような人でも、嘘を言いがちだということである。誰か、『りっぱな人』の報道や意見にたよるよりも、偏見や利害を持った多くの人が、ことばと論理によってその偏見をぶっつけあい、利害を明らかにしあった方が、正しい事実、妥当な意見に到達できる、というのが、反対尋問のあるいは相互尋問制度の根底にある考え方である。それはまさにデモクラシーの思想にほかならない。もちろん、日常生活で接する報道や意見に対して、われわれは直接に反対尋問をする機会は、ほとんど与えられていないことが多い。しかし、反対尋問の精神でこれらの報告や意見に対処することは、現在のような、いわゆる『情報社会』においては、われわれが生きぬくためにも必要なことだと思われる。」。

平野が執筆した当時は、日本においては陪審裁判がおこなわれていなかった。その後、2009年に裁判員裁判が実現し、高野を日本一の刑事弁護士に押し上げた。平野が、予言した反対尋問の技術と精神を体得した人間とは、まさに高野のことである。新しいちくま学芸文庫版には、平野と並び高野の書いた解説が掲載されている。

4.反対尋問とは、裁判において証人尋問の際、相手側が証人に対してなす尋問のことである。

現実の裁判においては、時代劇のお白州とは異なり、犯人や証人が、法廷で、私がやりました、申し訳ございません、以前の供述は嘘です、と真実を告白することはない。裁判官や裁判員に、あれ、この人の証言は簡単に信用してはいけないぞ、と思わせることができたら、大成功なのである。

そのためには、証人に自由に発言させ(実は相手代理人弁護士がコントロールしているのであるが)、その後で、書面やそのほか確実な、しかし前の証言と矛盾する証拠を突きつけ、その証言の信用性を揺がせる、というのが、基本である。

居丈だけになって、証人を攻撃したり、理詰めの質問で証人を困らせるというのは、傍聴人や観客は喜ぶかもしれないが、それは上手な尋問ではない。だから、反対尋問を見る者の姿勢も、問われるのである。能でいう「見巧者」とならないといけない。

国会質問を見ていて、追及する議員が、例え弁護士であっても、漫然と資料を突きつけ自白を迫るような質問をくりかえしているだけなのを見せられると、まだまだ反対尋問の技術と精神は、日本人に根付いていないな、と思うのである。

5.反対尋問の技術と精神は、刑事裁判のみならず、政治、経済、文化など人間の精神生活全般に応用可能であると、私は考える。

前述の、反対尋問の精神は、民主主義に通じるとの平野の言葉は、まさにそれを言い表している。

例えば、科学は、仮説を立て、実験でそれを実証していくという手順を踏む。思込みを、簡単には受け入れない、ということである。美学では「もしはじめに美と矛盾したものが自らを意識しているのでなかったのなら、もしはじめに醜悪なものが『私は醜い』と自分に向けて言っているのでなかったのなら、『美』とはそもそもなんであろう?」との言葉がある(ニーチェ「道徳の系譜」)。何かと何かが衝突しているのである。美を求める情熱の背後には、デモーニッシュ(悪魔的)なまでの生への衝動があるはずである。

反対尋問の精神とは、平たく言えば、批判的精神であり、それは、人間の精神生活全般に適用可能なのである。というよりも、人間の精神を開花させるためには、批判的精神が必要であり、例えば裁判においては、それは反対尋問または相互尋問という形で現れたということなのだと考える。

反対尋問を中核とする裁判員裁判が、2009年に日本に導入され、日本人の自己統治能力を最大限引き上げることが期待されている。

2011年3月11日の東日本大震災そして原発事故をどう位置付けるか。まだまだ、新しい事実が明らかにされることがある。「専門家」の発言も、まちまちである。各人が、批判的精神を持って考え、行動することが必要である。

新型コロナ禍に見舞われている現在、まさに必要とされる態度である。

高野自身は、反対尋問は、真実を明らかにする手段ではない、と言うが、刑事裁判における反対尋問に限定しての謙抑的発言であろう。

6.高野の裁判員裁判で裁判員あるいは傍聴人となった人は幸運である。彼の反対尋問から、その技術と精神を学ぶことができる。高野こそは、裁判員裁判の実現(2009年)によって、日本の刑事弁護の最前線に躍り出た人だ。

裁判員あるいは傍聴人でない人でも、それを学ぶことはできる。前掲のウエルマンの「反対尋問」は、読み物としても、面白い。また、彼の作ったDVD「裁判員裁判のための法廷技術」が、入手できる。同DVDは、裁判員に選ばれた人には、必須のアイテムであるが、そうでない人も、見る価値がある。

7.そろそろ、まとめに入ろう。

刑事弁護士高野隆は何が偉いのか、に対する答え。反対尋問を中心とする裁判員裁判を通じて、日本の民主主義、のみならず政治経済文化を高める起爆剤たることが期待されている。

彼がどれほど偉いのか、に対する答え。青天井である。それは、我々日本人が、彼から反対尋問の技術と精神を学び、各人の生活の場において、実際に活用し、政治経済社会文化などの様々な局面において、日本をどれだけ高めることができるか、にかかっている。

彼の変装を笑っていた人は、彼の「人質司法」(角川新書 2021)を読んでみるといいだろう。当たり前だ、あるいは優れていると思っていた日本の司法制度が、実は重大な問題を抱えていることを知ることができる。そして、被告人の気持ちが分かると発言した彼の気持ちも分かるのではないだろうか。