2011.10.15
原発事故と反対尋問の精神
1.福島第一原発事故の収束に目処がつきません。余震などで新たな事態が発生した場合には、その対応策が必要になるとして、現状のまましばらく推移するとした場合、我々はどう生きていくべきでしょうか。
例えば低線量被曝の影響について、専門家の間でも意見の一致が見られません。一定の放射線を浴びることを、ある人は危険だと言い、ある人は安全だと言う。
原子力発電そのものについても、ある人は直ちに止めるべきだと言い、ある人は積極的に推進すべきだと言う。
裁判は、例えば、ある人(被告人)について、ある人(検察官)は有罪だと言い、ある人(弁護人)は無罪だと言う状況において、裁判官または陪審員(裁判員)がどちらかを是と判断します。ある意味では、福島原発をめぐる現状と同じです。
裁判では、証人による証言が重要な意味を持ちます。専門家である鑑定人の鑑定も、同様です。そして、証言も鑑定も、反対尋問を経ないそれは、証拠として採用してはならない、とされています。偽証や誇張を防ぐ方法として、反対尋問以外に有効な手段は発明されていない、又は人道上許されていないからです。
今回の福島原発をめぐる言説について、反対尋問の精神は有効か。
長年、反対尋問に興味を持ち、実践してきた者が、この応用問題について考えます。
2.説得術、弁論術のハウツー本などで、よく説得的な議論を展開するためには、三つないし四つの根拠が必要だ、と、それこそ根拠なく説教されることがままあります
しかし、実はこの3ないし4という数字には、明白な根拠があります。
西洋の伝統では、アリストテレスの「弁論術」中に述べられています。アリストテレスは、人を説得するために重要なこととして、第一に話者の人格、風体、情熱など(エトス)、第二に論説の合理性(ロゴス)、第三に聴衆の心情(ペーソス)を挙げます。そのほか、第四の要素として、客観的条件が挙げられることがあります。これが、上記の3ないし4の内容です。
れは、真理とは何か、という大問題についての西洋の姿勢そのものなのです。古代ギリシャでは、真理とは人によって違うものであり、違って当たり前というシニカルな主張をするソフィストと呼ばれる人々が人気を博していました。これに対して、真理は一つだと自分の命を懸けて主張したのがソクラテスであり、その死に衝撃を受けて自分の哲学を完成させたのがプラトンです。プラトンの説は、本質的なものは我々が見聞きできる現実とは別にある、とするイデア論として結実しました。
アリストテレスは、ソフィスト達の説とプラトンのイデア論を(ヘーゲルの言葉では)止揚しました。我々は、議論によって真理に近づくことができる、との立場です。真理とは、対立する言説の矛盾を解消する過程にたち現れるものである、という思想がそれです。その後、ヘーゲルが、弁証法として明確にした考え方です。その起源は、もしかすると、もっと古く、争いは万物の父であると喝破したヘラクレイトスに遡るのかも知れません。
いずれにしろ、上記の3ないし4の要点に分解して考えることは重要かつ有益だと思います。
福島原発問題に即して言うと、まず、その説を主張する人は何者なのか。我々は世界市民として行動すべきであって日本人という枠にとらわれるべきではないと考える人なのか、他所の国に侵略されて奴隷となるよりは死を選ぶという人なのか、自分の本が売れるのであれば面白ければそれでいいという人なのか。その人の価値観に思いをいたすべきでしょう。
第二に、言っていることが一貫しているか、科学的事実と矛盾しないかも、大事なポイントです。また、許容基準が変更された場合、その理由は何でしょうか。政府は、どのように説明しているでしょうか。
そして、何より、受け入れる側の我々の条件が重要です。判断力、知識の多寡、資力、体調、楽観的か悲観的かなどなど、個人により事情は異なります。また、自分と想定する範囲が自分一人だけなのか、家族か、地域社会か、会社か、日本人としてか、人類全体かなど差がありそうです。それらは、どの立場をとるかにより矛盾対立する場面がありそうです。
第四に、客観的事実が、必ずしも明らかではありません。しかし、合理的に考えて、ありそうなことと、ありそうでなさそうなことくらいの区別できそうです。データが少ないとしても、公にされている統計はあります。
したがって、どの説が真実か、と一概に言うことはできず、この自分としてはこの説を採る、あるいはその人がほかの争点についてどう考えているあるいはどう行動するかという点を考慮しなければその人の説の本当の意味は分からない、ということなのだと考えます。貨幣、言語、政治体制のように、みんながそう考えれば、それが真実なのだということはありえます。
3.日本には、弁証法による思考や、言論で争いを解決するという伝統はないから、西洋のやり方は参考にならない、という反対意見が出そうです。
皮相な見方と言うべきです。
古代日本においては、聖徳太子が、十七条憲法で、党派的な独断を避け、議論を尽くすべきことを主張しました。議論により決着をつけることが日本の伝統になった、とは言えそうにありませんが、その代わりに、日本人は、自分の内部で議論する、対立点を解消するという方法を発達させました。
相手の立場、主張を先回りして考慮し、配慮することによって、議論自体をすることを省略します。空気を読むだとか、大人の対応だとか言われるのがそれです。
それがうまく行っているうちは、社会はスムーズに回転していきます。効率的といえば、効率的です。言葉も金も裁判も要りませんから。
しかし、そうすると、互いの配慮が干渉し合って、双方が得にならない、という事態も発生しそうです。オー・ヘンリーの小説「賢者の贈り物」のような状況です。
そこで私の提案は、今一度、基本に返って、各人が、自分は、このような立場から、このような要求をしたい、と明確に主張すること、そして反対の立場の人と議論を戦わせてみること、これを実践してみてはどうか、ということです。
案外、反対の人の思惑が、自分が想像していたのとは違っていた、ということがありそうです。そして、異なった環境に育ち、様々な才能、美意識を持った者が、その意見をぶつけ合って議論することにより新たな創造をもたらすという成果が期待できるはずです。
私は、日本が、この先生き残るためには、これしか方法がないと思っています。
この方法には、やっぱり彼は、自分のことしか考えていなかったんだ、そういう人を炙り出すことができる、という効能もあります。
4.反対尋問についての有名かつ有益な本に、Wellman The Art of Cross-Examination 1903(梅田昌志郎訳「反対尋問」旺文社文庫・昭和54年)、Lloyd Paul Stryker The Art of Advocacy 1954(古賀正義訳「弁護の技術」青甲社・昭和49年)があります。
原書は、いまなお版を重ねているのに対して、訳書はいずれも絶版のようです。日本が復活するために、再版を望んでやみません。
旺文社の「反対尋問」には、刑法学者の平野龍一の解説が付けられています。彼の次の平易な文章は、彼が、名前だけの権威でもなく、単なる刑事法の専門家だけでもなく、一流の思想家であることを明らかにしています。
「反対尋問の精神は、誠実とみえる報道も権威があるかのような意見も、多かれ少なかれ偏見を伴ったものなのであり、また利害がからむと、この人がと思うような人でも、嘘を言いがちだということである。誰か、『りっぱな人』の報道や意見にたよるよりも、偏見や利害を持った多くの人が、ことばと論理によってその偏見をぶっつけあい、利害を明らかにしあった方が、正しい事実、妥当な意見に到達できる、というのが、反対尋問のあるいは相互尋問制度の根底にある考え方である。それはまさにデモクラシーの思想にほかならない。もちろん、日常生活で接する報道や意見に対して、われわれは直接に反対尋問をする機会は、ほとんど与えられていないことが多い。しかし、反対尋問の精神でこれらの報告や意見に対処することは、現在のような、いわゆる『情報社会』においては、われわれが生きぬくためにも必要なことだと思われる。」