2007.09.20
座右の書:マックス・ウェーバー『職業としての政治』
1.プロテスタントの禁欲的な職業倫理による資本の蓄積が意図せざる近代資本主義を発生させたと主張する「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で有名なマックス・ウェーバーですが、私にとっては、彼の「職業としての政治」も、それに劣らず重要な本です。小著ながら、ウェーバーの決意を示す本です。私の手元にあるのは、岩波文庫の一冊で、幾度も幾度も読み返しました。
2.ミシェル・フーコーの著作が世に出て以降、我々は、もはや政治権力のあり方について、これを行使する主体とこれを受ける主体(客体)というように、単純に二分して考えることができなくなりました。彼が言うように、権力は、我々の間に網の目のように張り巡らされているのです。我々は、権力に支配されると同時に、その一端を担っているのです。
現代においては、「政治権力」を行使するのは、ひとり「政治家」だけではないのです。
私が弁護士として事件の委任を受け、その解決に努めるとき、当然、法に則った解決を求めることになりますが、その営為はそのまま法治主義を補強することであり、あるいはよりよい法それ自体を追及する試みでもあります。弁護士は、そして弁護士会は、個々の事件の処理だけではなく、さまざまな社会的活動もしています。
弁護士は、よく在野法曹という言い方をされますが、そして裁判官や検察官のように権力を直接行使するわけではありませんが、やはり、権力の一環を担っているということは、自ら意識している必要があると思うのです。
「職業としての政治」が、私のポケットの中に、ぼろぼろになって存在する所以です。
3.マックス・ウェーバーによれば、政治家にとって必要な資質は、情熱、責任感、判断力の三つである。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家を作り出す。そのためには、判断力が決定的に重要である。燃える情熱と冷静な判断力との二つをどうしたら一つの魂の中で結び付けられるかが問題である。
そして、政治家に求められる倫理は、ただ善いことを求める心情倫理ではなく、その結果の責任を負う責任倫理である。政治にとって決定的な手段は暴力であって、権力を行使する者は、全ての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは真実ではなく、しばしばその逆が真実であることを見抜けないような人間は政治的未熟児である。
政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。
そして、どのような事態に直面しても挫けない人間だけが、政治への天職を持つ。
4.マックス・ウェーバーの人となりについては、生真面目な学徒というイメージがありますが、単にそれだけではなく、ニーチェに通じる激しさを胸のうちに秘めていたはずです。
前述の「職業としての政治」中の、政治にタッチする人間すなわち手段としての権力と暴力性とに関係を持った者は悪魔の力と契約を結ぶものである、との記述には、ニーチェの思想が響きます。
近時、内外の学者が、ウェーバーにおけるニーチェの影響について論じているのも不思議ではありません。