2024.10.31
書評 太田勝造著「裁判における証明論の基礎 事実認定と証明責任のベイズ論的再構成」(弘文堂、1982年)
1.本書に対しては、一方で、これを絶賛する声がある。異能の天才倉田卓次は、「この論文が今後わが国での証明論上、里程標的意義を有する寄与として扱われるであろうことは確言できよう」と(「書評:太田勝造著『裁判における証明の基礎』民事法雑誌30号・1984年」、後に「民事実務と証明論」1987年)に収録)。法と経済のエキスパート川浜昇は、「ベイジアン意思決定理論の事実認定における利用を主張した金字塔ともいうべき業績」と(民商法雑誌109巻3号1993年)。
他方、本書を徹底的に批判したのが、長谷部恭男であった(「権力への懐疑 憲法学のメタ理論」1991年)。事の経緯は、事実認定にベイズの定理は適用できないとする長谷部の論文(「ハード・ケースと裁判官の良心」(学習院大学法学部研究年報21号・1986年))に対して、著者太田が反論したところ(「民事訴訟法と確率・情報理論―証明度・解明度とベイズ決定方式・相互情報量」(判例タイムズ598号・1986年))、長谷部が再反論をした(「訴訟上の事実認定と確率理論―太田勝造(名古屋大学)助教授の批判に答えて」(判例タイムズ616号・1986年)。(長谷部の論文は、いずれも後に「権力への懐疑」に収録)
長谷部の再反論に対して、著者は公式には反論をしていないので、世間では、長谷部が「勝った」と思っている向きがいるかもしれない。違うのである。
2.長谷部は、証拠(結果)と仮説を同一のベン図上に置いて議論するが(権力への懐疑201頁以下)、結果の全体を全集合とする標本空間を対象とする現代確率論の基礎を欠き、全く確率論の体をなしていない。太田が、長谷部との間にコミュニケーションが成立しないと嘆くのも、無理はない。長谷部がいかに博識を誇ろうとも、専門用語や数式を並べ立てようとも、太田のミスを正当に指摘し、太田が謝ったことがあったとしても、いかに彼のファンが多かろうとも、長谷部が確率論を理解していないことには、変わりがない。いずれが正しいのか、自分の頭で判断するためには、事が高校数学を超えているので、場合によっては専門書を幾冊か読みこなす必要があるかもしれないが、やってみる価値はあろう。
長谷部の批判によって、本書の光が曇らされることはない。しかし、長谷部の批判を、真に受けた人が、本書の価値を低くみたり、手にするのを躊躇したりしたとしたら、残念なことである。長谷部の影響力が大きいだけに、その罪は深く重い。
そして、長谷部は、理論を示さないまま、事実認定においては「暗闇の中の跳躍」を行わざるを得ないという(同194頁)。元ネタは、柄谷行人か、カルナップか、はたまたマルクスか分からないが、いきなりの神秘主義への「跳躍」である。但し、この点については私見を交えて後述する。
3.私は、大学は法学部に進み、法律書を読み始めたが、そのころから、日本の法律学に対して違和感、嫌悪感を覚えることがいくつかあった。そのうちの一つに、証明論の本に、○○%の証明があったときと、数字がでてくるのには、反吐の出るほどの嫌悪感を抱いていた。
日本の法律学者が、○○%の証明度と言ったとき、何を意味しているのであろうか。無限回の試行をしてみたとき、100分の○○の結果が実現する、というのであろうか、それとも単に感覚を数字に置き換えてみただけなのであろうか。
理論に数字が用いられる以上、それを導く数式が必要である。それによって万人が共通の認識を持つことが可能になり、理論の再現性と、反論可能性が担保される。ニュートン力学から量子力学への転換も、そのようにして可能となった。数式の裏付けのない数字は、無意味である。それなら、まだ「合理的疑いを容れない程度の証明」であるとか、「高度の蓋然性」といった、言葉による説明のほうが誠実である。
本書は、私にとって、上記の点に関して、数式によって数字が導かれることを明示した初めての本であった。
4.本書は、ベイズの定理という確率論に依拠する。
名前の由来となったトマス・ベイズは16世紀イギリスの僧侶、キリストの復活をめぐる議論の中で、結果から原因を推定する逆推論を発想した。それは、その後、物理世界での決定論とも言うべき「ラプラスの悪魔」で有名なラプラスによって、条件付き確率論の逆確率として数学的に整備された。これが、いわゆるベイズの定理である。
しかし、客観主義を至上とするする伝統的統計学(頻度主義と呼ばれる)からは、主観的確率論だとして、永らく、疎んじられ、排斥されていた。ところが近年、その有用性によって再評価されるに至った。イギリスでは、第二次世界大戦中、ドイツ軍の暗合の解読に威力を発揮し、Uボートを駆逐した。アメリカでは、戦後、保険の計算に用いられ、大成功を収めた。そして現在、ベイズの定理は、スパムメールの判別から、販売促進、AI、金融、物理学、安全保障など様々な分野、局面で利用されている。
本書は、日本においてベイズの定理に着目し、証明論に活かそうと試みた最初期の本である。
5.ベイズの定理には、前述のとおり、不遇の歴史がある。私も、初めてベイズの定理を知ったときは、客観的であるべき数理理論において主観を考慮するという点で、大きな違和感を覚えたことを鮮やかに思い出す。
翻って考えるに、伝統的確率論は、順に論理を追っていけば、なぜそうなるのか理解できるが、ベイズの定理については、なぜ事実を上手く説明できるのか、勉強しても勉強しても、その根拠は、依然として不明なままである。様々な手法が開発され、ますます有用性を発揮しているのであるが、どうしてそうなるのかは、一向に明らかにならない。この点、教室で「公理」として習った人とは、受け止め方に違いがあるのかもしれない。私にとっては、ベイズの定理こそ、長谷部のいう「暗闇の中の跳躍」なのである。
ベイズの定理には、あらかじめ主観的信条などの主観的要素を取り入れること(事前確率)で精度が上がる、新しい情報を加えることによって、さらに精度を増す(ベイズ更新)という、われわれ人間の思考に似た側面がある。我々は、記憶と思考によって自由、自由意志を手にいれたのであるが、ベイズの定理には、決定論に抗うという一面がある。必然に対する不完全性、偶然には、人間のひいては生物の可能性が隠されているのかもしれない。そこには、生物に対して、ラプラスの悪魔などあらゆる決定論に抗して、生きて抗え、自由のために戦え、希望を求めよ、と命ずる神のメッセージがこだましている。
6.ベイズの定理及びそれに関連する理論の発展は、今になっては、本書の著者太田の想像を超えているのではないか。
現在、ベイズの定理は、統計的因果推論、ベイズ的意思決定理論など、華々しい成果を挙げている。
意思決定理論との関係を深め、AI(Artificial Intelligence 人工知能)に盛んに研究されている。AI研究者のジュディア・パール(Judea Pearl)の統計的因果推論などの華やかな重要な業績に用いられ、大成功を収めている。
その他、哲学から経済学、医療、物理学、安全保障など様々な分野で用いられ、成功を収めている。
ベイズ統計学と伝統的統計学との確執は、今では、実務上、棲みわけという形で収まりつつある。客観的な論証の場では伝統的統計学が、意思決定に関連する場面ではベイズ統計学が妥当するようだ。多量の客観的データが存在する場合は頻度主義統計学が、データが少なかったり、次々と入ってくるようなときはベイズ統計学が有用だ、と言えそうである。
7.本書には、なお検討を要する点がある。
本書の著者太田は、人間の意思決定の過程とベイズの定理との類似性を強調するが、人間の意思決定の過程は、まだまだ未解明であるというべきである。仮にベイズの定理が人間の意思決定と類似しているとしても、それを是とするかどうかは、検討の余地がある。
事前確率を数値で表すことは難しい。三木浩一が、証明論で数値をもちいてもそれは、そもそも比ゆ的な表現上の手段であると明記している(「民事訴訟における手続き運用の理論」2013年・434頁)。
本書は、証明度の決定方式として原被告間の効用を比較したA式なるものを導入するのであるが(153頁)、それとベイズの定理との関係が明記されていないことは、読者に不親切である。
川浜昇や、三木浩一も、本書の意義を認めつつも、その役割について、適正な位置を与えようと努めているようにうかがえる。
本書もまた「ベイズ更新」の直中にあるのであろうか。
8.本書は、証明論において直ちに実務に役立つ本ではない。理論的に無謬の書籍というわけではない。しかし、ベイズの理論を適用し、証明論に一石を投じた点は、幾ら高く評価しても、し足りない。日本の法律学者のうちには、豊かな教養と華麗な筆さばきで議論をすすめるものの、その実、法律的な根拠は薄弱であったり、あるいは隣接諸科学の成果を密輸入しながら、法学の衣装に着せ替えただけの議論で満足する者や、海外の学者の説をそのまま述べるだけの者がおり、その点を追及され返答に窮すると、「リーガル・マインド」が足りない、と相手を非難する場面を何度も目にしてきた経験から、私は、著者には、最大限の敬意を捧げたい。
ベイズの定理は、集団遺伝学に依拠した進化生物学(進化生物学については他日を期したい。)とともに、21世紀の社会科学を革新する可能性を持っている。しかし、日本の法律学者の反応は鈍い。目の前で革命が起こりつつあり、それに参加することができる時代に巡り合わせたという幸せを思わないのであろうか。
意欲的な研究者、実務家が、ベイズの定理を用いて社会科学に貢献しようと考えたとき、証明論においてベイズの定理を極限まで展開した本書は、インスピレーションの源泉であり続けている。本書は、今もなお、極北に輝く。
(文中敬称略)