2017.08.24
桜井英治「交換・権力・文化」を読む
1.桜井英治「交換・権力・文化」(みすず書房・2017年)は、今評判の呉座勇一「応仁の乱」よりも、もっと専門的で、しかしもっと人間の本質に関わる問題を扱っている。
著者は、日本の中世の贈与の在り方について深く掘り下げ、同時に人類に共通の互酬制との関連性を探る。
2.著者が、序論の注釈において、取引の売手買手の関係が負い目などの人間の感情を育てたというニーチェの「道徳の系譜」を引き、互酬制が人類に共通の原則であると説くのは、慧眼である。しかし、今この時代、それは総論中で感想めいた口調で言うことではなく、各論で、もっと具体的に積極的に展開して欲しいところである。世界では、すでにそのような問題意識で、各学問分野の研究者が、研究成果を発表しているからである。
著者は、いずれ脳科学が明らかにしてくれると、能天気に明るく展望を述べる。それどころか、いずれは人間の感情も宇宙の成り立ちも、電子の振る舞いで記述できるようになるのであろうが、それまで人類が命脈を保っていられるものか。その前に、例えば、進化生物学での議論に貢献できるよう、仲間になれるような研究を目指すべきである。日本では、例えば経済学の青木昌彦であり、心理学の山岸俊男である。青木は、既に故人となった。著者は、すぐに山岸と共同研究を始めるべきである。会って話をするだけでも、得るものがあると思う。
3.日本の法学者はどうだろう。法律学は、大いに議論の発展に貢献できる分野だと思うのだが。
ず、憲法学者はダメだ。昔の憲法学者は、例えば自衛隊が憲法9条に違反する違憲の存在だと主張するとき、いずれ共産主義革命がおこるから、そのときの保身のため、あるいは取り立ててもらうため、という理由があって、言っていたことだ。しかし、今の若い憲法学者は、そのような理由さえもなく、戦争の本質に対する洞察や国際政治への興味関心もなく、ただ理想論を唱えているだけであって、資質、能力の低下が著しいことこのうえもない。
刑法学者はどうか。例えば、哲学で、人間に自由意志があるのかという問題が、それこそ脳科学者を巻き込んで、激しく議論されている。刑法の分野では、故意の問題に密接に関連してくると思うのだが、日本の刑法学者が、その議論に一石を投じたなどということを聞いたことがない。また、現代日本は、裁判員裁判によって、素人に事実認定のみならず量刑判断まで大掛かりにやらせる、という全人類的に意義のある制度を運営しているのであるが、日本の刑法学者は、この好機を認識しているのか。その研究は、犯罪と刑罰という人間社会における基本的な等価関係の解明にかならずや資するはずである。この問題は、あまりに重大かつデリケートであって、最高裁の判事連中に任せるには、大きすぎる。アテネの民主制の研究者、進化生物学あるいは進化心理学者との共同研究は、人類の精神史に残る業績となると思うのだが。最高裁がした小細工である裁判員の守秘義務を撤廃する運動が、日本の刑法研究者から沸き起こらないことが、不思議でならない。
思いのほか、民法学者がやってくれそうな気がする。古くは、穂積陳重が、「復讐と法律」で、不法行為法の源に復讐があることを、歴史を渉猟して説得的に論じた。最近では、広中俊雄の「債権各論講義」が、贈与に関連して、文化人類学の知見を反映させた議論を展開している。消費者法など、重要なことは認めるが、もっと骨太な研究が、若い研究者から出てきてもいいのではないか。
4.川島武宜などの始めた法社会学が、結局、ポシャってしまったのは、抽象化能力、原理原則を発見する能力に弱い、という日本人の共通の弱点の所為ではないか。法社会学に限らず、今なら、海外の研究者の議論も参考にできるし、交流することで、弱点を補い、日本から新しい研究成果を発表できるのではないか。
そのような方向に向けて、頑張っている日本の法学徒がいると嬉しいのだが。いないのかな。
昔から、法律学は、学問の田舎町と言われてきた。啓蒙主義初期こそ、法律そのものが法の支配の具現化として、人類の精神史の記念碑たりえた。しかし、その時期もとうに過ぎ、法解釈学だけでは、人々の尊敬を得られなくなっている。生命科学の発展により、人間の本質が明らかにされようとしている現代において、新たな人間像に適合する法を求める営みは、エキサイティングなものであるはずである。日本の法律学者は、このようなタイミングに学者になれたことの幸運を想わないのであろうか。