2016.10.23

大塚 嘉一

高野隆先生還暦のお祝い

(平成28年9月30日(金)夕べ都内某所にて)

御紹介にあずかりました弁護士の大塚嘉一です。

高野先生って、皆さんおっしゃるように、変ですよね。常識がない。いくら被疑者、被告人のためとはいえ、立場上、敵対する相手に対して、そこまで言わなくてもいいのに、ということが多い、多すぎる。大人げない。

バランス感覚もない。あるとき、私は、先生に問いかけました。手続きと人類の存続とどっちが大事ですか、と。先生は、迷わず、手続きだ、と答えました。冗談には聞こえませんでした。本気、なんだと思います。私などは、少しくらい手続きを曲げても、人類が生き延びたほうがいいと思うのですが。

それゆえというか、それにもかかわらずというか、刑事弁護士としての先生の能力、才能については、本日、多くの方々から最大の賛辞が寄せられました。

私は、かつて、高野先生と同じ事務所で長く一緒に仕事をしました。それに、実は、高校、大学と同期でした。先生から、その子供時代の話を、聞いたこともあります。それなので、先生の刑事弁護における天才ぶりと、性格の歪みの同居を不思議に思う人には、これからの私の話が参考になるかもしれません。

さて、現在の刑事弁護士高野隆ができあがるにあたって、一番の功労者は誰でしょう。一緒に刑事事件をやってきた仲間でしょうか。浦和地裁、現在のさいたま地裁で、事件を通じて、数々の著名な判例を生み出した木谷明判事でしょうか。早稲田のロースクールで出会った学生さんたちでしょうか。それとも、内助の功を務める奥さんでしょうか。それらの方々の功績を大いに認めながら、私は、刑事弁護士高野隆をつくりあげたのは、実に50年前の埼玉県〇〇市の〇〇小学校の悪ガキ連中だと言いたい。

一種のギフテッドであった高野少年は、小学生の時分、級友たちから相当いじめられました。普通は、そのような少年も、例えば先生に可愛がられたり、ガキ大将にとりいったりとかして、なんとか生き延びようとします。しかし、高野少年は、それができなかった。大人になっても処世術が全くない人が、小学生時代にそんなことできるわけがない。

小学生高野隆は、このままだと潰されると考え、私立中学に進みます。実は、私自身も埼玉県〇〇市の出身でして、当時、私立の中学校に進学する者は、ほとんどいなかった。よっぽど、切羽つまっていたんだと思います。避難先の中学では、たぶん、英語を徹底的に勉強しました。それが、後に、彼がアメリカに留学する際に、役立ったと思います。ですが、それはまた別の話です。

彼は、また、ペリーメイスンに憧れていた、とも言っています。しかし、あのドラマも不条理ですよね。メイスンがいたからこそ、無罪になった。いなかったら、刑務所に行っていた人がいっぱい登場するドラマです。被疑者、被告人、非行少年、これらの運命をメイスンが握っているんです。彼らの将来は、メイスンの手の中にある。高野隆の中では、かつて自分をいじめた悪ガキたち、そのなれの果ての連中の運命を、俺が握ってるんだぜ、ということで、心理的補償を得ている、というのが、私の見立てです。検事になって、不良たちを懲らしめる、と一筋縄ではいかないところが、彼らしい。私には、ジークムント・フロイトという古くからの友人がいるんで、彼とも、高野のことをよく話したりするんですが、彼も、私の意見に賛同してくれました。

少年高野が、例えば都内の文教地域の、もう少し野性味の欠けた子供たちのそろっている小学校で育ったなら、今現在の高野隆はいなくて、例えば、宮崎駿が、もうひとりいたかもしれません。彼は、詩人になりたかった、とも言っていますので。

以上、50年前の埼玉県〇〇市の〇〇小学校の高野先生のご学友の皆さんが、天才刑事弁護士高野隆を作り上げた、というお話でした。

さて、皆さんの今日のスピーチで、高野先生がいかに才能にあふれているか、先生から重要なことをいろいろ教わった、と言う話が、一杯聞けました。四宮啓先生は、いくらかつて同僚だったからと言って、褒めすぎ。しかし、私も、高野先生から、刑事弁護の精神と技術とを徹底的に学びました。特に、先生の反対尋問は素晴らしい。我々の共通の師である故菊地先生も、高野先生の反対尋問は、真綿で首を絞めるようだね、と目を細めていたことを思い出します。先生を見習い、先生には遠く及ばずとも、私なりに、できる範囲で、刑事司法のために、やれることはやってきました。それらすべて、私の弁護士としての一生の財産となっています。高野先生のご恩については、いくら感謝しても、感謝し足りない。

しかし、私は、わが身を顧みず、あえて、弁護士高野隆に対して、これからやるべきこと、今後のすすむべき道を示したい。そして、ここにお集まりの皆さんにも、課題を与えたい。三つあります。

一つ。まず、最高裁を叩きなおすこと。最高裁の判事連中が悪い。せっかく作り上げた裁判員裁判を、潰そうとしています。裁判員が、熟考に熟考を重ねた量刑を、いとも簡単に覆しています。彼ら最高裁判事には、教養がない。この度の裁判員裁判は、有罪無罪だけではなく、量刑も、素人が判断しようという試みであり、これほど大規模におこなわれるのは、古代アテネで行われて以来、実に2400年ぶりの実験であり、人類の精神史における重要な出来事であるという認識がない。それゆえ、何故、ソクラテスが、偽の神々でもって青少年をたぶらかしたという罪で死刑判決をうけたのか、この西洋哲学史上の難問について、判例中に、まったく言及がない。陪審における量刑を考える一級の資料ではないですか。

加えて、量刑の理由について、公平に反するから、としか言ってない。公平または正義こそ、人類が、それこそ2000年以上、議論をしてきて、未だに決着のつかないテーマではないですか。最近でも、ロールズの「正義論」が、持ち上げられたと思ったら、こき下ろされたりと、忙しいのが現実です。それを、公平の見地から、懲役15年は妥当ではなく、10年が妥当である、と言い切る、そのナイーブなことには、頭がくらくらします。教養があると、最高歳判事にはなれないのかも知れません。木谷判事には、是非、最高裁判事になってもらいたかったのですが、教養が邪魔したのでしょう。本当に残念なことです。

実は、裁判員に量刑まで判断させることについては、弁護士の間でも、議論があります。私は、国民の自己統治の能力を最大限に引き上げるためには、量刑のような複雑な微妙な問題も、あえて議論の俎上にのせることに、重要な意義があると考えます。朝日新聞の「私の視点」に投稿した文章で、私は、量刑センターなるものを作り、そこで裁判官に研修させたらどうか、と書きました。皮肉で言ったのですが、皮肉と分かってもらえず、絶望的な孤独感を味わいました。

高野先生及び皆さんには、個々の事件を一生懸命やるだけではなく、裁判員制度自体のさらなる発展のために、頑張ってもらいたい。先生の主張する口頭主義、直接主義の現場である裁判員裁判を活かす、さらに永続させることが必要です。

私は、裁判員裁判の最大のガンは、守秘義務であると思います。裁判員に対して、あまりにも広範囲に主義義務を課しています。それを、撤廃する運動が必要だと思います。発言したい裁判員をサポートすることも必要です。皆さんの協力が必要です。

二つ。ロースクールを、さらに発展、拡充する必要があります。法廷技術を教える場として、公的には、ロースクールがあります。その発展のためには、法哲学の授業をおき、それを充実させるべきだと考えます。司法試験の合格者数増にやっきになっている各ロースクールですが、ロースクールを意義あるものにするためには、受験技術だけを教えるのだけではなく、法の支配の意味を学生に考えさせることが必要だと考えます。そして、日本全国の法曹が、難しい問題があれば、それを聞きにくる、そのような知恵がいっぱい詰まった場となって欲しい。いわば、医療における大学病院のようなものです。高野先生の「私塾」と連携できないものでしょうか。

三つ。最後に、高野先生に、最高裁判事になってもらいます。先生のお得意の非常識を存分に発揮してもらって、日本の司法に新風を吹き込んでもらうのです。そして、人類の歴史に残る、誇れる司法を実現してもらいたいものだと思います。高野先生は、教養があります。あふれています。しかし、ちょっと歪んでいる。そこを意識してもらえば、きっと歴史に残る、いい仕事をしてくれるはずです。神山啓史先生が、司法研修所の刑事弁護教官を務めているのですから、何がおこるか分からないじゃあないですか。

もうそろそろ時間です。

刑事弁護士高野隆が誕生し、60歳まで生きたというのは、とんでもない幸運だと思うのです。ここにお集まりの皆さんがいなかったら、刑事弁護士高野隆は、いなかったと思うのです。結局、先生は、白い馬または超高性能のスポーツカーなんだと思います。周りの人々に、理解と献身とを強いるのです。ものすごいスピードを出して走り抜けるけど、荷物を運んだり、乗り心地のことなど考えない。皆さんは、高野先生という稀有な才能に魅了された変な人ばっかりです。高野先生の魅力は、いくつか、あるいは数え切れないほどあると思いますが、私にとっては、彼のユーモアです。これがある限り、私は、彼の引力から脱出することができない。

皆さん、高野先生を見習っています、追いつきます、追い越します、というだけでは、まだまだ志が低い。高野それ自身ではなく、高野が目指す先の、その当のものを、目指してもらいたいものだと思います。そして、高野先生の理想を実現するには、まだまだ、ここにお集まりの皆さんの協力が必要です。各人が、その持ち場に応じて、高野先生を応援することができるはずです。

今日は、お集まりの約150人の変人が、変人どうし、高野先生が、還暦まで生き延びられたという奇跡を、ともに喜びたいと思います。そして、これは、まだまだ、通過点に過ぎません。皆さんの、更なるご協力をお願いして、私の挨拶とさせていただきます。

ありがとうございました。

あ、それから、私は、トウネンとって50歳ですので、私の還暦祝いは、10年後にお願いいたします。