2019.08.10

大塚 嘉一

007

1.「007は本物だよ。父さんも、そう言ってたもん」。小学生のとき、同じクラスのWちゃんが、宣言した。Wちゃんは、女の子にもモテるし、先生の受けもいい。

私は、意を決して、断固として強くきっぱりと異議を唱えた。「そうかなあ。もしかしてだけど、お話、なんじゃないかなあ。いや偽物というわけではなくて」。

「007 ゴールドフィンガー」。007は、当時は「ゼロゼロセブン」と呼んでいた。全裸で全身に金粉を塗られた女がベッドに横たわっている場面を見ても、「なんで金粉なんだ?」と思うだけだった。アストン・マーティンがボンド・カーとして、初めて登場する。

2.私は、007が好きだ。ブルーレイのボックスセットも持っている。版権の関係で、ボックスには収録されていない作品もある。初めてのジェームズ・ボンドの映画作品がコメディだった、なんて知ってる人いるだろうか。時代背景を映しながら、あるいはメカに凝り、海に潜り、あるいは宇宙に飛び出し、主人公の俳優を変えながら、続いてきた。スーパーマンや、怪物、ロボットでなく、人間が活躍するのが魅力だ。

007の最新作は、「スペクター」。2015年公開。主人公を演じるのは、ダニエル・クレイグ。クレイグは、アクション映画の本道にもどって、体を張って、敵と戦う。「スペクター」では、ボンドは、お休み中なのに、わざわざ敵を求めて、闘う、戦う。

3.戦うことは、生物の本質なのではないか。

生命の起源について、三十数億年前に、海底の奥深くで、有機分子が発生し、生死のある「個体」が発生し、これが生命の始まりだ、という説が、説得的に説かれている(中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」2014)。個体が、生存のためにする活動は、すなわち、これ戦いである。

その後の、生物の発展は、皆さんご承知のとおり。生物は、異性を獲得するために戦い、希少な資源を求めて他の個体、他の種や自然と戦い、生き延びて、繁栄してきた。ときに協力して、戦うこともあった。一緒に戦う者たちの仲間は、我々であり、わが村であり、わが祖国であり、戦う相手は、敵であった。生命の本質を、「利己的遺伝子」に求めるのは、私には、皮相な見方に思える。生命の本質は、自分を保存するために戦うことである、と思う。その自分とは、一分子から生物の個体、部族、国家と発展してきた。全人類を、我々と意識できるかどうかは、現代人及びその子孫に課せられた重要な課題である。自意識を、自分の身体に限るのは、考察として不十分なのではないか。まして、「利己的遺伝子」にそれを求めるのは、間違いなのではないか。

藤原正彦は、日本の美しい自然が日本人の情緒を育んだ、と言う。しかし、むしろ台風、地震、火山の噴火、洪水、津波、雷、山火事といった厳しい自然との闘いが、日本人を生み、育てたのではないか。自然を愛でる日本人の姿は、自然との戦いのすえの「和解」の景色なのではないか。

戦いは、物理的、暴力的な戦いに限らない。文明や文化の発展に伴い、争いは、殴り合いから、文化的洗練の度合いを競い合うまでに、進化する(ノルベルト・エリアス「文明化の過程」)。経済的には、衒示的消費(conspicuous consumption)まで。どれも、生物の基本に由来する「本物」だ。

古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉、「争いは万物の父である」の射程は、とてつもなく広く、深い。

4.「スペクター」のエンディングは、女性を愛車の傍らに乗せ去っていくボンドの後ろ姿。クルマ好きの潜在意識を容赦なく暴く。私は、アストン・マーティンを買うために、貯金を始めた。

「スペクター」のエンディングは、女性を愛車の傍らに乗せ去っていくボンドの後ろ姿。クルマ好きの潜在意識を容赦なく暴く。私は、アストン・マーティンを買うために、貯金を始めた。