2014.07.30

大塚 嘉一

白木勇日本国最高裁判所第一小法廷裁判長は最高裁判事の器に非ず

1.最高裁第一小法廷は、本日(平成26年7月24日)、大阪の女児虐待死事件で、被告人の刑を検察の求刑懲役10年を超える懲役15年とした一審の大阪地裁の裁判員裁判判決を支持した大阪高裁判決に対する上告審で、量刑を見直し、被告人の一人に対して懲役10年、もう一人の被告人に対して懲役8年とする判決を言い渡しました。裁判員裁判の量刑についての結論を最高裁が覆すことになる初めての判断です。この結論は、裁判官の全員一致で、裁判長の白木勇判事が補足意見を書いています。

私は、今回の判決は間違っていると思います。裁判官、裁判長の5人全員が間違っているわけですが、とりわけ裁判長である白木勇判事の罪が重い。

最高裁判事ともなれば、個々の事件だけではなく、日本人全員、日本全体のことを考えて欲しかった。できれば全人類、全世界の見地からの考察が欲しかった。

今回の判決には、その欠片さえも見当たらず、とても残念です。

白木勇裁判長が、最高裁判事の器でないことを、その識見、人品、容姿の観点から、以下述べます。

2.白木勇判事は、教養がない。

今回の判断に、なぜ、ソクラテスの名がでてこないのか。

およそ2400年前、古代アテネにおいて、陪審裁判で死刑を言い渡されこれを従容として受け容れたソクラテスの逸話は、本件を考察する際に必須の事項ではないのか。神々を信じず青少年をたぶらかしたとの罪で死刑を言い渡され、友人知人から逃げるように説得されても、これを拒否し、自ら毒ニンジンを飲んで自死したソクラテス。不当とも思える民衆の判決に異議を唱えようともしなかったソクラテス。陪審員(裁判員)の量刑不当を考える際の一級の素材ではないか。

プラトンは、ソクラテスがなぜ陪審員の死刑判決を受けいれたのかを生涯問い続け、その形而上学を完成させました。それ以降、プラトンの観念論は、西洋思想のバックボーンとなっています(それが西洋人の想像上のものだとしても。)。ホワイトヘッドは、すべての西洋哲学はプラトン哲学の脚注にすぎない、と言っています。ニーチェは、キリスト教は、プラトン哲学の大衆版であると喝破しました。

日本は、明治維新を機に、西洋の文物を導入しました。法律、司法制度も、その一つです。法の表面だけでなく、その本質、根拠を知りたいとなったら、プラトンの哲学は必須の知識ではないでしょうか。白木判事は、そのような欲求に駆られたことはないのでしょうか。

ソクラテスの名を直接出さないとしても、読んだ人に、ああソクラテスのことを言っているなと思わせるような表現というものはあるはずです。本判決書きには、そのような記述は皆無です。

白木判事は、本件を考察する際に、ソクラテスのことが、頭をよぎったことは一瞬たりともなかったのでしょう。法の本質について、深く考えたことがないのでしょう。上っ面の法解釈学だけで、人生を過ごしてきた人なのでしょう。

白木判事の印象に残った本として、夏目漱石ら作家の本が何冊か挙げられています。21世紀をリードする知識人の読む本として、これで足りるのでしょうか。夏目漱石の名こそ挙がっていますが、漱石こそは封建主義を脱して西洋流の個人主義を考え抜いた人です。漱石の思想にまで踏み込んだ読書をしていないのでしょうか。

3.白木勇判事は、日本人全体のこと、全人類のことを考えたことがない。

1991年のソビエト連邦の崩壊以降、経済を中心とするゴローバリゼーションの勢いが止まりません。政治や文化は、グローバリゼーションの荒波の中、どのような将来を迎えるのでしょうか。国民国家のもと、個人の自由、人権が確保、発展させられるのか、予断を許しません。

我々は、日本の経験を思い出すべきです。

いまでこそ、我々日本人は、東日本大震災の際発揮されたように、秩序正しく行動できる国民と国際的にも称賛されていますが、ずっと昔からそうだったわけではありません。

中世の日本人は、相当、攻撃的であったことが知られています。戦国時代には、大名など武士のみならず、領民も激しい競争にさらされていたからです。そこでは自力救済すなわち自分の権利は自分で護ることが原則だったのです。「喧嘩両成敗」などの慣行から自力救済が禁止され、やがて明治維新により近代的な裁判制度の導入に至るのです。明治維新の成功や現代の司法制度の背後には、中世の、自力救済に懸命な努力、復讐心を克服する葛藤が込められているのです (清水克行「喧嘩両成敗の誕生」)。

そして、各藩の封建的支配から中央集権国家へという移行を成し遂げた我々日本人の経験は、現代の地球大の民主主義をどう実現するかという人類の共通の課題にとって、大いなる示唆となるはずです。

翻って考えるに、裁判員制度では、国を挙げて、我々一人ひとりが自らを統治する、という民主主義の理想が制度化されています。事実認定のみならず、量刑まで判断します。人類史上、特記するべき壮大な実験です。

紀元前4世紀ないし5世紀の約200年間、古代のギリシャにおいて、直接民主政が行われていたという事実は、人類の歴史における奇跡です。現代においてもなお、民主主義を希望とする人々にとって、かつて法の支配のもと、生活の全局面に競争を持ち込み、これをルール化して、エクレシアを開き、陪審裁判を行なって、人間の精神を極限まで高めた人々がギリシャ半島にいたという歴史的事実は、今なお勇気の源泉であり続けます。

この度の裁判員裁判は、一般人に有罪無罪の事実認定のみならず量刑の判断までさせることで、人類史上2400年ぶりの試みなのです。

是非とも、裁判員裁判を成功させ、人類の精神史に残る業績としたいものです。

21世紀には、如何なる賢人といえども一人では解決できない難問が、日本に、世界に立ちはだかります。オールジャパンで、オール人類で、その英知を結集する必要があります。そのためには、自由に公平に議論する精神風土が不可欠です。我々日本人は、裁判員制度を通じて、そのような新しい日本人を作り上げ、世界に貢献できるはずです。さもなければ、いずれ日本は世界地図から消滅し、地球は第六絶滅期となる絶滅の危機を迎えることになるでしょう。

白木判事には、そのような視点が欠如しています。

4.白木勇判事は、最高裁の方針に反している。さもなくば人間時限爆弾である。

最高裁は、裁判員裁判を導入するに当たり、国民の常識を活かし、国民の司法参加を通じて国民の司法に対する信頼を強めるため、と言っていました。平成24年2月には、事実認定がよほど不合理でない限り、裁判員裁判の判断を尊重すべきだ、との判断を示してもいます。

白木判事のこの度の判決は、これらに反します。

しかし、もしかすると、白木勇判事は、人間時限爆弾であるかも知れません。というのは、裁判員裁判導入当時、最高裁長官であった竹崎判事は、もともと裁判員裁判には否定的でした。裁判員に量刑まで担当させるのは、裁判官への依存を残すための最高裁の陰謀であった、とも考えられるのです。そうであれば、今回のような判決がでるのは、予想できたことです。というよりも、白木判事は、竹崎最高裁長官が仕込んだ、時限爆弾、人間時限爆弾であるのかもしれません。

5.白木判事は、刑罰の根拠について深く考えたことがない。

白木判事の意見からは、刑罰の根拠についての深い考察の跡がうかがえない。先例しか見ていないからでしょう。

現在の量刑では、殺人事件において、当然に死刑、とはなりません。人間の命は皆等しいはずだ。そうだとしたら、人を一人殺した者は死刑、が当然のようにも思えます。しかし、現に日本で行われている裁判では、人を一人殺せば死刑、とはなっていません。被害者が一人でも死刑になるのは、現実には、計画的に身代金目当てに幼い子を誘拐して殺したなどの事情がある場合に限られます。なぜか。

私なら次のように説明します。

死刑に値するかどうか吟味し、死刑に値しないとなったら、死刑にしてはいけないのは、刑事手続きには、罪と贖罪の葛藤、許しを認めるアジールの精神が、伏在しているからです。

かつては、殺人があると、その殺人者のみならず、その家族、一族が殺されることがありました。そして、報復が報復を呼び、暴力は拡大しました。また、死刑の方法も、麻薬を飲ませて痛みを感じなくさせたうえで、その肉を少しずつ切り取っていくとか、馬車で八つ裂きにするとか、残酷な方法が用いられていました。

しかし現代の日本では、犯罪者が被害者を何人殺しても、死刑は絞首刑であり、犯罪者一人の責任が問われるだけです。すでに、相当程度、日本の刑罰は、「個人化」され、「社会化」されているのです。

我々は、刑事手続きを中心とした司法制度と警察の存在により、過去とは比較にならないほどの平穏な生活を日々営んでいます。仮に、それらを無くしたとしたら、また日本の中世のように、お互いに警戒しあい、緊張した生活を余儀なくされるのです。

ですから、わが子を殺そうとする犯罪者がいた場合、その者の命を奪ってでもわが子の命を助けようとすることと、いったん殺人事件が起こった場合、そしてその犯罪者が見つかり、裁判になり、その者に死刑を科さないこととは矛盾しないのです。

人を殺したからという理由で直ちに死刑にしないのは、法と警察に護られている我々の支払う代償です。

個人個人に割り当てられた人格的正義と、司法制度に割り当てられた社会的正義とは、その様相を異にするのです。これは、単に正義は相対的なものだと主張するものではありません。正義の実現が、ある場面では、個人にも委ねられているということです。

実定法でも、それを伺うことができます。窃盗、強盗犯が自宅に侵入した場合、その犯罪者に対する防衛行為に行き過ぎがあっても、違法とならず処罰されない範囲が拡大されています(窃盗等ノ防止及処分ニ関スル法律)。

個人個人に自由に活動する場を保障することは、総体的に正義の実現する場を増大させるはずです。

殺人事件があれば、報復を求める声がわき起こります。我々は、自分の心の中にも、そのような気持ちがわき起こるのを抑えることができません。ことに、自分の子供たちが同様の目にあったとしたら、必ず復讐を誓うであろうと、想像します。世間では、犯人のみならず、その親や親族にまで非難が及びます。

しかし、いったん裁判が始まり、裁判官や裁判員として判断を求められれば、公平な第三者として判断する必要があります。

判断者は、一旦は被害者になりきって、一旦は犯罪者にもなりきってその立場になって考えてみる必要があります。スイッチを切り替えて判断することが必要です。

殺人事件であれば、被害者や遺族の立場に立つと、犯人を八つ裂きにしても足りないと思うでしょう。その犯罪に相応しいのは、少なくとも被害者の命と等価関係にあるもの、すなわち犯罪者の命、刑罰では死刑となります。

次に犯罪者の立場になって、どうしてそのような犯行に至ったかを考えてみるとどうでしょうか。彼は、抗うことの困難な強い衝動に見舞われたのかもしれません。あるいは、彼の魂が、絶望的なまでに孤独のうちにあったのかもしれません。犯行の前に、その孤独から、我々は彼を救い出すことはできなかったのでしょうか。

双方の立場に立ってみて、そのうえで、被告人はなお生きる価値があるかどうかが裁かれるのです。

その判断には、あなたの全生活、知識、経験、勇気そして良心がかかっているのです。

我々のとるべき態度は、犯罪者に対する憤激のまま直ちに彼を社会から放逐し、我々自身の社会を閉ざしてしまうことではありません。そうなれば、我々が守ろうとする、その当のものが、我々の手から零れ落ちて失われてしまうからです。

あなたが裁判員として、その場にいるとすると、あなたは、死刑にするべきでない者を死刑にしないために、裁判員に選ばれたのです。

新聞報道を見ていると、凶悪犯罪が無い日は無いかのようです。犯罪が増加し、ますます凶悪化しているかのようです。

しかし、統計的に見ると、なお日本は、世界的に見ても治安はよく保たれており、凶悪化が特に進行しているとは言えません。犯罪の急増、凶悪化と見えるのは、かつての日常生活と、それ以外の生活との境界が失われて、「体感治安」が悪化しているせいであるとの指摘があります(河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」)。

そうだとすると、犯罪を減らすためには、厳罰化が必要であり、それだけが唯一の解決方法である、との考えは間違いです。犯罪者を生み出さない社会、仮に犯罪者となっても、その社会復帰を真剣に社会全体のこととして考える仕組みこそが、必要となります。

人を殺したからという理由で直ちに死刑にしないのは、法と警察に護られている我々の支払う代償です。あなたは、死刑にするべきでない者を死刑にしないために、裁判員に選ばれたのです。

6.白木勇判事は、論理的思考力に欠ける。

判決書中で、白木判事は、裁判員は先例にとらわれることなく、量刑を判断することができると述べながら、裁判員の量刑を覆しています。

量刑には具体的理由が必要であると強調しながら、自分の量刑には、まったく理由を付していません。

小学校の作文であったならば、零点をもらうことでしょう。

白木判事は、量刑は直感ではなく客観的な合理性を持たなければならない、と言い、量刑の傾向を考慮しなければ、量刑評議は合理的な指針もないまま直観による意見の交換となってしまうであろう、と述べます。合理的な理由を述べず、直観に基づく量刑をしているのは、白木判事、あなたではないですか。懲役15年が妥当でなく、懲役10年及び8年が妥当と判断する合理的根拠が判決書のどこにかかれているのですか。量刑の傾向とは、結局、前例主義のことではないですか。実行犯でないということで、懲役2年を減軽する理由はどこに書かれているのでしょうか。

また、白木判事は、刑罰の公平が重要であると説きます。一見、もっともかとも思われます。しかし、公平とは何かをめぐって、人類は二千年以上の間、議論を続けているのです。最近でも、ロールズの「正義論」が、持てはやされたり、こき下ろされたりと忙しいのが実情です。刑罰における公平とは何かは必ずしも明白な問題ではありません。過去の先例に揃えることが公平だとは、議論なしには言えないことです。

7.白木勇判事は、人の意見を聞かず強権的な人である。

最高裁判事15名のうち、白木判事を含む5人全員が、今回の判断に賛成というのは、到底納得できません。白木裁判長の強力なゴリ押しがあったはずです。自分の補足意見でも、裁判官は裁判員を誘導しなければならないとも読める文章を書く人です。同僚の裁判官を誘導することなど、平気の平左でしょう。

およそ、日本の裁判官は、発信力の弱い人が多い。最高裁判事も同じなのでしょうか。ベストセラー「要件事実マニュアル」を書いて、Twitter、Facebookで発信を続ける岡口基一判事は、稀な例外です。しかし、判決書中では、発信を控える必要はありません。アメリカであれば、本件の事案に対する最高裁判決は、数十頁、あるいは数百頁の意見が付されてもおかしくないはずです。

8.白木勇判事は、共感力に欠ける。

第一審判決を見ても、高裁判決をみても、現場の裁判官は、よくやっていると評価できます。

一審判決では、被害者の女児は食事をきちんと与えられておらず発育不良で常習的な虐待などが行われていたこと、虐待事件に今まで以上に厳しい罰を課すことが児童の生命を尊重しようとする社会情勢に適合するなどを量刑の理由にあげています。

現に裁判員をつとめた男性は、親にすがるしかない子供の立場にかんがみて被告人らには重い責任が妥当と考えた旨が報告されています。

白木判事の言葉には、評議に苦労した裁判員の皆さんの納得するような言葉がありません。裁判員裁判の現場の裁判官らを得心せしめる説明がなされていません。

私も、裁判員裁判導入以前に模擬陪審をやった経験からわかります。一般の方の意見を集約することの難しさが。模擬裁判ですから、意識の高い人が集まったはずですが、それでも、どんな反例を示しても、論理的にあやまりであることを説明しても自説を曲げない中年女性などがいます。一審裁判官は、よく裁判員の意見を聞いたと思います。

白木判事の言葉は、何より、自分に関係のない事件に裁判員として呼ばれ、審理に立ち合い、真剣に評議を重ねた裁判員の方々に対して失礼だと思います。

9.白木勇判事は、裁判員に対する裁判官の役割を誤解している。

事実認定ではなく量刑には、それを判断する人の全人格が問われます。量刑は、被告人の生命や身体、財産に対する極めて権力的な具体的な作用です。量刑をどうするかは、社会正義とは何か、公平とは、犯罪と刑罰の本質、被害者や遺族の感情、社会がどう受け止めているか、被告人の更生の可能性、拘禁施設の実情、などなど局面を異にする複雑な要素を考慮することが必要です。量刑については、「正解」はない、「信条と決断の問題である」といわれる所以です。

白木判事は、さかんに、裁判官は裁判員に量刑の傾向を教え導くよう強調します。全く、間違った姿勢です。

裁判員裁判において、裁判官は、裁判員の意見を聞き、謙虚に耳を傾けなければなりません。必要とあらば、裁判員の抱く疑問点にも答える必要があります。

一つの例として、裁判官は、まずはヨーロッパに由来する法律の趣旨、近代の啓蒙主義を基に説明することでしょう。なぜなら、大学で、司法研修所で教わるのは、日本が明治維新以来、導入し採用してきたヨーロッパ起源の司法制度だからです。それを日本の市井の一般人に分かるように説明することが求められています。そのうえで、自分の信念なり信条について、話をすることが必要な場面があるかもしれません。

法律で決まっているから、量刑基準があるから、というだけの理由で判決を言い渡してきた裁判官は、「弾劾」されるべきです。此度の裁判員裁判によって、「裁判官の化けの皮がはがれるかもしれない。」(平木典子)というのは、実に現在を予言しています。白木裁判官こそ、「化けの皮をはがされた」醜態をさらす裁判官そのものではないでしょうか。

白木判事は、量刑の根拠について、先例を考慮すること以上のことを言っていません。乱暴な人なら、「司法試験に受かって裁判官になって過去の判例に詳しいくらいで、偉そうに御託並べてんじゃあねえよ。」と言い出しかねません。

裁判員裁判では、裁判長が心すべきは、連歌のたしなみでしょう。裁判官は、裁判員の発言が要領をえず、まどろっこしく感じるかもしれません。しかし、裁判官には、裁判員のエトスを感じとる感性が要求されます。池上英子は、連歌など江戸時代に発展した身分の上下を問わない交流を「美的パブリック圏」と名づけ、それが政治や経済の制度に役立つ可能性を示唆しながら、次のように述べます。

「日本の美的パブリック圏の伝統は、儀礼のメカニズムを通じて、一時的にそれぞれがアイデンティティーを『スイッチ』することの重要性を強調しているが、これこそ日本の交際文化のなかでも最も美しい点かもしれない。一般的に言って、人と人との交流の場でよりよく交流するためには、心を開いて相手の言葉に耳を傾けることが必要だ。これをネットワーク的な言葉で言い換えれば、自らの既成の概念、つまり自己の既存の既知ネットワークからとりあえず離れるという心構えが必要だ。それでこそ相手の認知ネットワークと深く交差することができ、そこに水流が吹き出るように新しい何かが生まれる。そして実際に成功した人間交流の場、つまり『パブリック圏』では、社会的相互作用からくる興奮から、自ずと我を忘れるような感情の高揚がある。伝統的連結詩などの座の文芸は、実はこうした人間一般のコミュニケーションに当てはまる原理を高度に儀礼化、文芸化した形で提示していると言えるだろう。」(「美と礼節の絆 日本における交流文化の政治的起源」)。

裁判官が、心を開き、裁判員と真剣に向き合ったとき、このような創発性(エマ―ジュエンス)の機会を、きっと経験することでしょう。現場の裁判官が、(最高裁の思惑にもかかわらず?)そのような努力をし、経験し、それを活かすことができれば、今回の裁判員裁判は、大方成功したと言っても過言ではありません。

先例を重視する白木判事のすすめる姿勢から、どのような自由な発想が裁判員から引き出せるというのでしょうか。

10.白木勇判事は、顔が悪い。

頭が悪いと思われるのを承知で敢えて書きます。テレビで、白木勇判事のご尊顔を拝し奉る機会をえましたが、官僚主義を絵に描いたようなお顔です。本人は、ハンサムと思っているのかもしれませんが、悪相です。結婚しているのでしょうか。同様に上昇志向の強い女性を口説いたのでしょうか。子供はいるのでしょうか。似非エリート主義を吹き込んでいるのでしょうか。いろいろなことを想像させるお顔ではあります。

11.非学非才の身ゆえ、重要な論点を見逃しているかも知れません。文才にも欠けるので、まだまだ意を尽くしていないかもしれません。また、もともと争いを好まない性格なので、批判にも及び腰とみられる点があるかもしれません。

それにもかかわらず、本稿を、ここに急ぎアップするのは、本稿が完全だからでも、すべての問題を解決しているからでもありません。今、目の前で、国民の利益が大きく損なわれつつある、という危機感が、私を突き動かしているのです。機会があれば、別に詳細に論じたい。

26年余の弁護士生活を通じ、様々な裁判官にあってきました。ダメな裁判官も、いい裁判官もいました。私が心から尊敬する裁判官・元裁判官も3名います。そのうえで言いたい。

白木勇裁判長は最高裁判事の器に非ず。大事なことなので二度言いました。