死刑制度存置論
弁護士 大塚嘉一(埼玉弁護士会)
1 初めに
アベックを不良達が襲って順々になぶり殺しにする、というものであったかと思うが、私が修習生の時、ひどく残酷なやり切れない事件があった。死刑が話題になり、ある検事が、「娘が殺されたら、俺は検事を辞めて犯人を殺してやる」と言った。
私は、よせばいいのに、「じゃあ、奥さんが殺されちゃったらどうするんですか」と聞いた。検事は、黙って、両手を合わせた。そして言った。「拝んじゃう。犯人に向かって、ありがとうございました、って」。
検察庁で仕事が終わったあとに、ビールを飲みながら雑談していた時のことであったので、どこまで本気で、どこから冗談なのか、よく分からなかった。
「検事を辞めて」という言葉が頭に残り、今もよく覚えている。
今般の死刑執行に対しては、各方面から、死刑廃止の意見が表明された。
日弁連も、死刑廃止論を基調とした声明を発表している。私の属する埼玉弁護士会もやはり同様の声明を発した。
私は、弁護士会がこのような声明を出すことには反対である。
2 死刑そして死刑廃止論・死刑肯定論の系譜
死刑を、国家による生命刑と捉えれば、その歴史は定義からして国家の成立を待たなければならないが、その起源を人身御供や復讐に求めれば、はるか昔に遡ることになる(K・B・レーダー「図説死刑物語」)。
レーダー自身は、人身御供や復讐を無意味で残酷なものとし、現代の死刑はそれらの代わりであるから、廃止されるべきであると説くが、そうだろうか。人身御供や復讐も、その当時の社会共同体の在り方や人々の意識からの必然性があったはずである。また、逆に、現代の死刑を、人身御供や復讐と同一視するのも短絡的である。
ベッカリーアやベンサムは死刑廃止論を展開したが、その背景には、民衆に対する過酷な死刑という現実があった。
ベッカリーアと同じく啓蒙主義時代の思想家ルソーは、社会契約説に基づき死刑を肯定していた(「社会契約論」)。カントの死刑肯定論は有名である(「人倫の形而上学」)。カントのあとを受けたへーゲルは、国家に真正面から取り組み、弁証法に基づき進歩する世界精神という観点から、犯罪者を刑罰を以って遇するのが、彼を尊重することになる、と説き、死刑を肯定している(「法哲学」)。へーゲルをもって、死刑肯定論は一応の完成を見たと考える。
肯定説のいずれも、共同体と個人との共存という難問を時代の制約のなかで懸命に模索した軌跡と見ることができる。しかし、国家と個人についての理解があまりに「近代的」であり、そのまま現代人を納得させる理論ではない。我々は、自由意志をもった理性的で平等な主体というものの虚構性を痛いほど認識している。
3 現代における死刑の根拠
人間の社会の背後には、暴力がある。「資源」の稀少性という条件の下では、人間は、その自己保存本能によって、他者を「差別」し、「排除」せざるをえない宿命にある。「豊かな社会」であっても、「差別」、「排除」はなくならない。人間の欲望は多様であり、「模倣性」があり、欲望が完全に充足されることはないからである。これが、生身の人間に、怒り、憎悪、嫉妬、攻撃性等の感情、情動をもたらす原因である。「排除」は、日常生活の「いじめ」、三角関係から、喧嘩、殺人、女性差別、人種差別、民族問題、南北問題、核戦争まで、様々なレベル、局面で問題となる。死刑も、また、殺人者を「差別」し、「排除」することに他ならない。
他方、人間は、「連帯」を求め、共同体を形成する。男女の性愛から、家族愛、村落共同体への一体感、各種同好会、会社への忠誠、郷土愛、愛国心。共同体の力は個人の力より強く、共同体構成員に利益をもたらす故である。その基底には、自己保存本能と種族維持本能がある。人間には、自己の帰属集団を求めてやまない、強い欲求がある。
暴力を野放にし、「排除」の行き着くところは、「万人の万人に対する闘争」(ホッブス「リヴァイアサン」)であり、部族、民族、人類の滅亡である。報復が報復を呼び、滅亡していった部族は、歴史に埋もれていることであろう。
人類の歴史上、際限のない復讐から身を守る方法として、いけにえの儀式による暴力の転化、決闘、仇討ちによる暴力の解消、暴力から国民を保護する国家の法体系、があった(ジラール「暴力と聖なるもの」)。これらは、その時々の社会共同体の在り方や人々の意識において、あるいは呪術、あるいは儀式として、重要な意味を与えられていたのである。共通するのは、構成員の総意によって、「聖なるもの」を作り上げ、復讐を終結させることであり、人類が生きのびるために、積み重ねて来た智慧である。
「刑罰は、現在でもなお親が子を罰するのと同じように、加害者に向けてぶちまけられる被害についての怒りからして、なされたのである」(ニーチェ「道徳の系譜」)。「怒り」に源をもつ刑罰は、その後、応報、正義の衣装を着せられ、次第に制限されていく。人間の社会生活を統べる等価交換の原理の力である。
現代における法体系による保護は、「合理化」されているのであって、かつての「いけにえ」そのもの、「復讐」そのものではない。すなわち、「いけにえ」は、誰がいけにえになるかは偶然によったが、法体系の下では、犯人を警察が探し出し、裁判で犯罪をしたかどうかを判断し、その者を対象とする。「復讐」の場合、相手の方が強大であるときは、報復が確実になされるかどうか、不確実性が伴ったが、法体系は、犯罪者を、死刑にし、監獄に閉じこめ、罰金を科し、確実に処罰する。国家による「排除」は、もっとも確実であり、強大である。
殺人を犯したものは死刑に処するべき、という規範意識の背後にある(「排除」の基礎となる)、怒り、被害感情、報復感情、正義感、漠としたサディスティックな感情、殺人者に対する嫉妬(?)などの、感情そのものは、必ずしも合理的なものばかりとは言えない。このような「善悪の彼岸」にある国民感情をも、法体系は取り込み、これを「合理化」し、その圧倒的な暴力によって、自らを「聖なるもの」に昂めるのである。
死刑は、殺人者に対する「排除」を「合理化」し「聖なるもの」を求めようとする企てである。これによって、国家は、限りない復讐の連鎖を断ち切る装置となった。それが、国家が暴力を独占したことの意味である。国家は、ここでは、殺人者以外の「国民の束」としての集団である、と言うこともできる。
国家は、「神は死んだ」(ニーチェ)と宣言されて久しい現在、人類が作り上げた最大のフィクションである。それは、国民の意識によって支えられている。「国家」は、自然にある「社会」とは異なる。
国法秩序は、意識して維持される必要がある。ウイリアム・ゴールディングの小説、孤島に流れついた子供たちが、次第に勝手に殺し合いをするようになってしまうが、大人(軍人)がやってきて、平穏を取り戻したという一編(「蠅の王」)は、童話ではない。
殺人者に死を、というのは、国家成立以前からの人類の意識あるいは無意識である。死刑制度を廃止し、国民の間に、殺人には死刑というサンクションが与えられる、という意識がなくなった時、法体系によって暴力から保護されるという信頼が失われ、国家の、暴力を「聖なるもの」へと転化する機能が消滅する。かくして社会は、「万人の万人に対する闘争」へと、無限後退に陥る可能性を孕むこととなる。一つのきっかけで「国民」は「群集」と化す。ボスニア、ヘルツエゴビナの惨劇は、中央主権国家が消滅し、法体系による保護が失われたとき、何が起きるかを教えてくれる。
実際に死刑が廃止されたときに、どの程度「後退」するかは、その時の法体系の在り方、政治、経済状況、国民の意識、感情などに依存しよう。旧ユーゴスラビアの事態は、国家が消滅したという極端な例である。国家が消滅しない場合でも、死刑という受け皿を失った被害者、遺族の「怒り」は、「必殺仕置人」や「自警団」を産み出すであろう。彼らの跳梁跋扈する社会と、死刑はあっても「法の支配」の貫徹する世界と、どちらが住みやすいであろうか。
死刑制度は、現時点においては、人類が、必要最少限度の犠牲で生きのびるための最も洗練された装置として、「正当性」を付与される。「法の支配」の下にあることを条件として。
ルソーやカント、へーゲル以後に生きる我々は、人間疎外(マルクス)を知り、無意識の重要性(フロイト)に気付いた。我々は、現代的視座で、死刑の是非を、考えなおさなければならない。
彼は本当に犯人なのか、彼の刑事手続上の人権は確保されていたか、彼が犯行を犯さざるをえなかった事情は何か、更生の可能性はないか、被害者や遺族、社会はどう受け止めているか、これらの事情を、個別・具体的に検討しなければならない。現代社会にともに生きる者としての責任に応じた刑罰が科せられなければならない。その結果、死刑にするべきでない、となったら、死刑にしてはならないのである。これが、死刑が、いけにえや復讐に由来しつつ、しかし、それを超えて、それを「合理化」したものであることの意味である。
現代日本における死刑は、死刑廃止を主張せざるをえないほど、刑の均衡を失してはいない。日本の現実は、死刑になるのは、連続殺人、強盗殺人、強姦殺人そして保険金殺人の犯情の悪いものがほとんどである。人を一人殺しても、直ちに死刑になるわけではないのが実情である。実務家は、科刑の平等、公平についても、考慮している。逆に、仮にも、「量刑基準」を機械的に適用するなどということがあってはならないのは当然である。
犯罪が自由意志に基づかない場合は、犯罪にならず、したがって死刑にならない。人格の可塑性を考慮して、一八歳未満の者は、死刑にしない。
そこで、問題は、国が、教育も含めて、個人の意志決定の自由を保障するような条件を提供していたかどうか、ということ。現代の日本は、十分とは言えないにしても、個人の責任を問うことができる程には、そのような条件を整備してきた。これからも、そのような条件を整備することに努力するべきである。
4 死刑廃止論批判
死刑廃止論の主要な根拠は、生命はかけがえのないものであり、たとえ殺人者のものであっても、それを奪うことは許されない、個人のためにある国家が個人の生命を奪うことはおかしい、冤罪の可能性がある以上、取り返しのつかない死刑はしてはいけない、という三点であると思う。
まず、右のの点について、考える。最初に、「大切な生命」を奪ったのは殺人者である。まず犯罪による殺人の被害者の悲惨に目を向けるべきである。物言わぬ者に対してこそ、まず想像力を働かせるべきである。諸事情を考慮しても、この犯行は同情の余地がなく、死刑もやむをえない、という事件は、必ずある。死刑は、そのような事実のために、ある。「野原は 落ちてくる鳥のために ある」。
廃止論者は、死刑廃止は理性の命ずるところであると主張するが、最初の殺人がよくて、何故、次の殺人がよくないのか説明できない死刑廃止論は感情論にすぎない。悪いから悪い、という循環論である。
いったい、死刑廃止論者の論述には、被害を無視あるいは過小視するものが多い。「逆恨みの人生」を書いた丸山友岐子は稀な例外である。
死刑廃止論者の、被害者及びその遺族に対する無関心、無慈悲な態度は、つとにニーチェの指摘するところである。
「共同体はその権力が強まるにつれて、個人の違犯をもはやそれほど重大視しなくなる。というのも、共同体はもはや個人を以前ほどには全体の存立にとって危険な反乱分子とみなさなくてもよくなるからである。犯罪者はもはや<法の保護を奪われ>て放逐されるということはない。一般の怒りはもはや以前のように勝手放題に彼の身にぶちまけられることはゆるされない。・・・共同体の権力と自己意識が増大するに応じて、刑法もまたその厳しさを和らげる。共同体の権力が弱まり、その危機意識が深まるにつれて、刑法はまたもや厳酷な形式をとるようになる。加害者を罰しないでおく、−かかる最も高貴な贅沢を、喜んで自らに許すことができるような社会の権力意識というものも、ありえないことではないであろう。『この寄生虫どものことなど一体おれに何の関係があるというのだ?勝手に食わして太らせておくがいい。それだけの力はまだたっぷりおれにはあるんだ!』と社会は言うであろう。この正義の自己止揚、これがどんな美称で呼ばれているかは、人の知るところであるつまりその名は、恩赦。いうまでもなく、これは常に最強者の特権であり、いっそう凱切な言い方をすれば、彼の法の彼岸である」(ニーチェ「道徳の系譜」)。
死刑廃止論者は、共同体の権力がもたらした果実を、自分の道徳心と錯覚している。死刑廃止論は、100年の時の試練にたえうる思想であるか。共同体の権力が弱まったとき、死刑を、と、真っ先に叫びだすのが彼らでないことを祈る。
死刑廃止論の根拠のとして、国家が、一方で殺人を禁じておきながら、他方で死刑をするのは矛盾、とも主張される。「矛盾」を口にするのであれば、犯罪による殺人という出来事こそが「法の否定」として「矛盾」であり、それは、法の否定の否定である死刑によって「止揚」され、法の正義が回復される(へーゲル)という弁証法を知って欲しい。現行法によっても、国民の生命も絶対のものではない。正当防衛等による殺人は、許されているのである。
確かに、国家という抽象的な存在によって、目的的に、確実に、死に致らされる者の精神的苦痛は、ドストエフスキーの小説に描かれるように、想像を絶するものがあろう。そして死刑にしなければ、目前の「死刑囚」の生命は、救われることにはなる。しかし、仮に死刑を廃止すれば、死刑による殺人はなくなるが、その結果、発生するであろう個人が報復のために行う殺人がもたらす弊害は、死刑以上のものであろう。
現代の日本では、国家権力に反抗したというだけの理由で死刑になる者はいない。個人を殺したからこそ死刑になるのである。真価が問われるのは、ヒットラーによるホロコーストのような権力の濫用の事態が生じたときに、体を張って反対できるかどうかである。
死刑廃止論の根拠のの冤罪のおそれは、実際上、死刑制度の最大の問題点である。しかし、本質的には、犯罪が明らかである場合、それでも死刑にしてはならないのか、が問題とされるべきである。誤判は、死刑制度の存否にかかわらず、あってはならないことである。後に論ずるように、冤罪の危険は、法曹が実践的に克服するべき課題である。
仮に死刑を廃止すれば、冤罪による殺人はなくなるが、その結果、発生するであろう個人が報復のために行う殺人がもたらす弊害は、冤罪以上のものであろう。「必殺仕置人」は、法曹以上に「冤罪」の発見に、情熱を燃やし、才能を発揮してくれるだろうか。
死刑廃止論のその他の根拠として、死刑は身体刑であり、残虐であるから許されない、という主張もある。しかし、日本の死刑は絞首刑である。試しに死刑判決を読んでみるがいい。絞首刑よりも残虐でない犯行は、見出せない。
先進諸外国が死刑を廃止しているから、日本も死刑を廃止するべきであるというような議論は、ご飯を食べているときには、してほしくないものである。
死刑が、民衆の残虐性を煽るという主張がある。現代日本の死刑は、絞首刑であり、非公開である。今、死刑執行の報道に、一番煽られているのは、死刑廃止論者である。
宗教的理由による、死刑反対は、その宗教を持たない人に対しては、説得力がない。聖書の「復讐するは我にあり」との神の言葉をそのまま信じられる人は幸せである。
死刑の代わりに賠償させるという主張があるが、経済的償いで済む問題ではない。
死刑執行者については、誇りをもって仕事のできる環境を整えたい。どうしても嫌な人には、転職してもらう。
なお、法務大臣による死刑の執行が批判されるが、死刑判決がある以上、法務大臣は、その執行を、法によって命じられているのであって、そのような批判は当を得ない。
死刑廃止論者はどのような世界を見せてくれるのか。
ともかく死刑を廃止することが重要であり、その後のことは考える必要がない、という「学者馬鹿」は、とりあえず置いておく。
凶悪犯人に対して、死刑にせずに、どのような処罰をするのか。終身刑は、やりようにもよるだろうが、却って死刑よりも残酷なのではないか。「死刑囚」を死刑にもせず、終身刑にもしないとすれば、彼をどう遇するというのか。彼を生かしておいて、「反省文」を書かせるのか。確信犯の場合はどうか。彼をどう「癒し」ていくのか。彼を隣人とできるか。
「死刑囚」とでも「共生」していくという積極的な姿勢がない限り、死刑廃止論は本物ではない。
自己を破滅に導く相手の裏切をも許すことさえも含めた絶対的な「許し」の気持ちは、親の子に対する愛情と男女の性愛の中にしか、存在しえないであろう。全くの他人に対して、そのような気持ちを持つことは、普通の人には無理である。
また、死刑を廃止し、なお生命の絶対を主張するのであれば、犯罪による殺人をも絶対に阻止しなければならないはずである。その結果は、「1984年」(ジョージ・オーウェル)以上の徹底した管理社会をもたらすであろう。テクノロジーの発展は、そのような社会を技術的には可能とするであろう。しかし、そのような社会を「人間」の社会とは言わせない。
5 死刑の目的
死刑と犯罪抑止力をめぐる議論で、何人にも否定できない一つのことがある。その人を死刑にすれば、以後、彼によって同種の犯罪が行われることはない(特別予防)。
死刑に、威嚇力があるか(一般予防)については、議論がある。
死刑を廃止したが、殺人が増えていない、という統計が示されるが、その他の条件(経済、治安等、死刑制度よりも影響力のある要素)が明らかでなく、その有意性に疑問がある。激情による殺人とそれ以外の殺人とでは事情が違うかもしれないが、長期的には、金銭目的の殺人、計画的、組織的殺人を中心に増加するのではないだろうか。最近の実証的研究もそれを裏付けている。いずれにしても、社会システムの問題として、研究が深められるべき点である。
威嚇力を肯定するためには、死刑を公開して、見せしめにしなければならない、との議論がある。しかし、現代のような情報化社会では、実際に目の前で、死刑にしなくとも、死刑にされた、という情報だけで、人々がこれを表象し、死刑の役目は達成される。
最も重要なことは、(実際には必ずしもそうではないが)人を殺した者は死刑になり、正義が回復される、という国民の規範意識が死刑制度によって強化される、ということである。かくして、法体系による保護が貫徹されるのであって、数字にあらわれないとしても、重要なことである。死刑の裁判が、国民の「連帯感」を育成する「儀式」と言うこともできよう。裁判は、我々はどう生きていくべきか、ということを、発見し、確認していく儀式である。
個々の死刑事件を、本当に死刑に値するのかどうか検討することによって、我々は、何を犠牲にして(「排除」して)、何を守ろうとしているのかを、「反省」する契機とするべきである。社会が複雑化し、多元的な価値観が併存する現代においては、簡単なことではない。
死刑制度よりも、経済的平等の保障、政治的安定の維持、個人がそれぞれの人生に価値を見い出し、心豊かに生きられる社会の実現が、犯罪抑止には、より有効であろう。無差別殺人のような現代型犯罪には、現代人と現代社会についての深い理解が必要。個人に疎外感を持たせない社会の実現に努力するべきである。その材料を、死刑事件から汲み取ることができる。
死刑はなくならなければならない。ただし、死刑制度の廃止ではなく、死刑に相当するような犯罪がなくなることの結果として。我々の究極の目的は、個人が、暴力によって殺害されることがない社会の実現でなければならない。
6 死刑制度の弊害
冤罪のおそれ。実際問題として、死刑制度の最大の難点である。無実の場合だけでなく、動機・犯行態様等が誤まって認定され、死刑になる場合も含めて、絶対にあってはならないことである。仮に、冤罪が生じたときは、名誉回復の措置、最大限の経済的補償その他が講じられるべきである。
制度的には、民事事件と刑事事件とでは証明度が違っていい。死刑事件の場合は、「心証をうんと濃いものにするしかない」(倉田卓次)。
私は、無実の者を見つけだすことが、刑事手続きの最大の目的である、と思う。
冤罪防止のために多くの熱心な実務家、学者が方策を提案している。それらをすぐに実行に移すべきである。捜査及び公判廷における自白偏重主義が最大のガンである。
主体的にも、法曹は、冤罪を防ぐために最大限の努力を続けなければならない。
我々法曹は、専門家集団として、産業社会においてその仕事を通じて、権力構造の重要な一部となっている。そして我々は、産業社会における秩序を維持し、法的予測を告げることを期待され、同時に、社会から「排除」される人に対する最後の援助者でなければならない、という相反する役目を負わされている。
我々法曹は、「差別」に根拠があるか、「排除」することに理由があるかを、常に検証し続けなければならない。冤罪の場合を含めて、「排除」するべきでない人を「排除」してはならない。「排除」するか否か「決断」するとき、プロの職業人として、自己を賭して闘わなければならない。
冤罪の可能性は、ゼロにはならないかもしれない。しかし、冤罪をなくすことを、我々法曹は、自己の目的として生きていかなければならない。
殺人者に殺された者は、哀れである。国家の手によって死刑になった者も、哀れである。冤罪で殺される者も、また哀れである。
被害者を殺害しようとする瞬間。死刑判決を宣告する瞬間。死刑執行の瞬間。「決断」する瞬間は、全ての者が「狂気」である。我々は、ただ単に殺されなかったというだけの者である。我々は、「死者の眼」(エリ・ヴィーゼル「夜」)に射竦められながら、生きのびなければならない。
団藤重光は、死刑判決の言渡しの後、退廷しようとしたとき、傍聴席から「人殺しっ」との言葉を浴びせられ、一瞬竦み、それから、死刑廃止論者になったという。これでは竦むタイミングが悪い。「人殺しっ」と、叫ばれてから竦むのではなく、死刑判決を言い渡した瞬間にこそ竦んでもらいたかった。このようないいかげんな判決では、被害者は無論、死刑になった人も成仏できないのではないか。死刑執行に当たる人には、本当にお気の毒と思う。
7 死刑制度と弁護士会
死刑問題に関しては、つい感情的になりがちである。私は、「お前なんか、死刑になっちゃえばいいんだ」と、ある死刑廃止論者から罵声を浴びせられたことがある。
国民から付託された専門家である法曹が、どう考えるかは、決定的に重要である。
しかるに、廃止論、存置論、ともに「生命の尊重」を主張しながら、全くその結論を異にしている。その信ずるところを主張するしかない「神がみの闘い」(マックス・ウェーバー)の場となっている。何故か。
「生命尊重」というのは、後から付けた看板で、まず最初に結論があったと考えるしかない。大胆に図式化すると、殺人の被害者にシンパシーを覚えるのが存置論者、死刑囚にシンパシーを覚えるのが廃止論者、と言えよう。その結果を、お互いが、自ら「生命尊重」と命名しているに過ぎない。したがって、「生命の大切さ」を説くだけでは、お互いに相手を説得できない。
いずれにしろ、そろそろ、「神がみの闘い」、感情論の対立から抜け出したいものである。本稿は、死刑存置論の立場からの、そのような試みの素描である。本稿は、私の、市民社会に対するアフェクションの、私なりの表現、スタイルでもある。
死刑制度そのものの廃止・存置について、会内でも、「神がみ」の「代理戦争」をしている現段階では、弁護士会として、死刑廃止論を前提とした声明は、如何なる形であれ、発表するべきではない。世間を混乱させるだけである。会内での議論をさらに十分尽くすべきである。
8 終わりに
件の検事は、もし、娘が殺されたとしたら、本当に犯人を自分の手で殺そうとするかもしれない。そして、自己の身分との矛盾から、検察官の職を辞することも考えるかもしれない。しかし、事件直後の激しい感情の嵐が過ぎ去ったあとは、犯人を司直の判断に委ねようと考えなおすのではないだろうか。もちろん、検事を辞めることもしまい。そして、彼が自己の職責について、常にプロであろうと心掛けている人間であるなら、その後の彼の検事としての仕事ぶりは、従前となんら変わらないものであるはずである。
ところで彼の妻が殺されたとき、彼がどうするかは、今も分からない。